勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

  『勉強の哲学』を読み終わる。

 

 以前、千葉さんの著書である『動きすぎてはいけない』に挫折していたので、今回はどうかなと思ったけど、一般向けの本なのか、かなり読みやすかった。

 

 主に若者が使う言葉(「ノリ」とか「キモイ」とか)を千葉さん独特の言い回しで用いているけど、別段難しいわけではない。

 本書は、勉強とは本来どういうものなのかということについて書かれている。

 

 勉強とはつまり、キモくなることである。

 キモくなるとはどういうことか。それは周りから浮くということである。

 

 僕たちは環境から大きな影響を受けている。そして環境から浮かないようにおどおどしている。「空気を読む」とか「忖度する」という言葉が、環境から浮かないようにしようとしていることを物語っている。

 しかし、同時に僕たちは自由になりたい。自分を束縛する環境から自由になりたい。そのためには勉強する必要がある。勉強してキモくなって自由になるのだ。

 

 では勉強とはどのようなものか。

 まず、ぼくたちは環境のノリに合わせている自分に気づく。メタな視点から自己を認識するのだ。そして次に、そのノリからずれようとしてみる。

 

 たとえばこんな会話を想像してみる。

A「この前川崎で小学生をたくさん殺したのは、ひきこもりなんだってー」

B「その後、どっかのお父さんがひきこもりの息子を殺したよね」

A「あれ、ひきこもりの息子が誰かを殺すんじゃないかって不安だったかららしいよ」

B「やっぱりひきこもりってやばいんじゃない?」

 

この会話には、引きこもり=犯罪予備軍というコードがある。

環境のノリに合わせている人は、このノリに合わせてひきこもりはヤバいという趣旨の話をするが、キモくなりたい僕たちはそのノリからずれようとしなければならない。

 

僕たち「いや、ひきこもりはもしかしたら日本の未来を救う救世主かもしれないぜ!」

 

こうして環境のノリからあえてずれる訓練をすることで僕たちはキモくなれるのである。

 

しかし、いくらその環境のノリからずれても、結局はまた、別のノリに移行するだけではないか。それではほとんど意味がないのでは?という批判もあるはずだ。

 

著者の千葉さんは言う。

環境のノリからずれて、いったん小賢しくなった後、あらためてまた環境のノリに戻ってくるのだ。

千葉さんは、環境のノリに合わせているだけの人を「バカ」と呼んでいる。そして、勉強して小賢しくなった後、またその環境に戻って来る「来たるべきバカ」になろうと言っている。

 

「バカ」と「来たるべきバカ」は違う。

「来たるべきバカ」は、見た目はバカそうに見えてもその実は違う。

いったん勉強してキモくなったバカは、その環境のノリを多様な視点から客観的に眺められる自由なバカなのだ。

 

 

感想

この本を読んでいてまず第一に思い浮かんだのが、井筒俊彦だ。

 

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

 

 

『意識と本質』で書かれている言語の構造と、千葉さんの、バカが勉強してキモくなり来たるべきバカになるという構造は同じだと思った。

 まぁ千葉さんも言語の話をしているし、結局井筒俊彦と千葉さんの話していることは同じなのだ。

 

 面白いのは、井筒俊彦は東洋哲学を、千葉さんはフランスの現代思想を専門にしているのに、言っていることが同じであるという点だ。

 

 同じ山を別のルートから登っているだけにすぎないのだ。

 説明のしかたこそ違えど、頂上から見えている景色は同じなのだ。

 

 これを拡大していえば、キリストだろうと、ブッダだろうと、ソクラテスだろうと、みんな同じ山を、それぞれが発見したルートから登っているだけにすぎないのだ。

 

 文字通り、高みに達した人たちには、同じ景色=真理が見えているのだ。