若者のサウナでのドラクエ行動の不気味さについての教育学的考察

 

サウナが好きで大学生のころからよく入っているのだが、大学生だった10年前は温泉や銭湯のサウナに行っても自分以外はじいさん・おっさんなんてのは普通だった。サウナ好きが高じたのとコロナ対策のためにDIYしたプライベートサウナで粛々とサウナを楽しんでいたのだが、いっしょにDIYした水風呂の水温(山の水なので外気温と連動している)があまりに冷たくて入れないので、最近は近場の温泉にあるサウナを利用している。

 

都会ではサウナがブームになっていると知っていたが、自分の住んでいる田舎でもそれが波及していることをまざまざと知った。サウナが超満員なのである。サウナには階段状のベンチがあってそこに座ってサウナを楽しむのだが、自分がよく行く温泉のサウナはあまりに活況でベンチでは収まりきらないので床に座らざるを得ない人もいる。温泉に浸かる人よりもサウナにいる人のほうがはるかに多くて驚く。

 

今では若者もサウナにいるのは普通の光景だ。しかしそこには不気味さがある。この前行ったときも、その前に行ったときもそうだったのだが、大学生くらいの若者3人か4人くらいが固まってサウナに入り、そして固まって水風呂に入るのだ。不気味さと気持ち悪さを感じた。なぜそこまでいっしょに行動するのか、まだ若者の域にとどまっていると思いたい自分には皆目分からない。

 

サウナは高温の空間であり、5,6分で玉粒の汗が噴き出して外に出たいと思う人もいれば、20分くらい平気で入っている人もいる。サウナに何分いられるかというのは、個人の身体感覚と直結しているわけだ。だからこそ若者のドラクエ行動が理解できない。なぜいっしょのタイミングでサウナを出るのだろうか。自分の身体感覚よりも、仲間と一緒に行動するほうを優先させているのは気味が悪い。

 

常連のおっさんどうしは「おしゃべり禁止」のサウナでも普通に会話していて、それでも自分がサウナを出たくなったら適当なところで会話をやめて出ていく。ドラクエ行動の若者も普通に会話していて、しかし適当なところで会話をやめて個々にサウナを出るのではなく一緒のタイミングで出て行く。不思議である。

 

ドラクエ行動と似たような現象に連れションがあるが、あれは授業と授業のあいだの限られた時間に行われるものだから、いっしょにトイレに行くかっていうのはまだ分かる。でもサウナなんて自分の感覚で出ていくものだから、いっしょにサウナ入っていっしょにサウナ出て、いっしょに水風呂に入っていっしょに水風呂を出てっていうのは本当に気持ち悪さしか感じない。

 

ドラクエ行動を見てると芸人の又吉が書いた『人間』という小説を思い出した。

小説の主人公が学校教育について語っているくだりがあるのだが、かいつまんで話すと学校教育は子どもを社会に適合させるために本能を矯正している、全員が同じ時間に腹が減るわけではないのに、効率を重視して同じタイミングで食事をとらせる、もちろん身体は納得してないけど、何年もこうしたことを繰り返させて自分の感覚と行動を乖離させることに慣れさせていく、という内容。

 

学校教育においては身体感覚よりも社会の都合を優先せよという暗黙のカリキュラムが徹底して遂行されているから、自分の感覚よりも仲間という社会の都合が優先されているのだろうか。あるいは、今の若者は身体感覚が完全に麻痺してしまっているのかもしれない。熱いのか寒いのか、気持ちいいのか悪いのか分からないのかもしれない。学校教育によって個人の感覚と行動が完全に乖離してしまった結果、自分は今熱いという感覚が失われてサウナを出るタイミングが分からないのかもしれない。

 

こういうことを踏まえれば、今の学校教育は以前よりもさらにシステマティックに洗練されいっそう成果が上がっているといえる。なぜならおっさんは自分のタイミングでサウナを出ていき、若者は自分のタイミングでサウナを出ないからである。これはつまり、おっさんには学校教育の成果が十分に上がっておらず、逆に若者には効果が十分に出ているということである。自分のタイミングで出ていくということは、社会の都合よりも自分の身体感覚を優先しているということであり、逆に自分のタイミングよりも仲間との都合でサウナを出るということは自分の感覚よりも社会の都合を優先しているということである。

 

全国各地で発生する若者のドラクエ行動を見て、学校教育を合理化することに尽力してきた教育学者や文部科学省歓喜しているに違いない。あの不気味さは学校教育における訓練の賜物なのだ!こうした訓練はおっさん世代には効かなかったが、若者には効果があったわけだから。

 

おそらくこうしたドラクエ行動の背景には発達障害が関係している。

たとえば授業中に机でじっとしていられない子どもはアスペルガー障害を患っていると診断される。授業中にじっとしていられないのは、個性ではなく障害なのだ。だから治療の対象になる。おっさん世代には個性だったものが、若者世代には障害とみなされ治療されるようになった。治療の結果、自分の感覚よりも社会の都合を優先できるようにした。このことから明らかになるのは、社会の都合に合わせられない状態を「障害」と呼ぶということである。社会の都合よりも身体感覚を優先することを「障害」と呼ぶのだ。障害は病気なので治療されなければならない。そして社会の都合に合わせなければならない。

 

教育とは何か。それは社会の都合に合わせるために身体感覚を奪う抑圧のことである。

今の学校教育における子どもと教師に対する理不尽な仕打ち(意味不明な校則、ブラック労働等)は見事なまでに効果を発揮している。教育的抑圧の結果、不気味な若者がたくさん社会に出荷され始めている。ドラクエ行動はその不気味さの一つの例にすぎない。