最近の若者を見てると学校教育システムは完璧に機能しているのだと感じる

最近の若者を見てると、ほんとにずば抜けている子はとんでもなくずば抜けている。藤井聡太君とか佐々木朗希君とかね。ビジネスの世界でも、若いうちから何でもいろいろできてごっつい稼いでる子とかも普通にいる。しかも彼ら彼女らは、成績だけでなく、人格も優れているから恐ろしい。インタビューとか見てても、自分の言葉でしっかり話しているし、他者への配慮も行き届いているという人格者。オリンピックを見ていたら特にそう感じた。それと対照的に、政治家やそのまわりの大人たちはなぜあんなに醜いのだろう。こういうずば抜けた若者たちを見てると、学校教育システムは完璧に機能しているんだと感じる。まぁもちろん、学校教育はこうした若者が生まれる一つの要因にすぎないけれども、それでも学校教育システムはずば抜けた若者を生み出すのに大きな貢献をしていると思う。とはいえ、学校教育システムは今大きな岐路に至っているように見える。それはずば抜けた若者が生まれたことと無関係ではない、というか密接に関係している。不登校の子どもがどんどん増え続けていることとも密接に関係している。その構造的な要因について書いてみたい。

 

この前内田樹アエラという雑誌のなかで教育について書いていた。かつての教育は子どもたちを農業で語っていた。「めばえ」とか「わかば」というように。しかし今では工学的な言葉で語られる。教育に関する語彙はその時代の基幹産業に影響を受けるようだ。そして、教育に対する考えもそれに応じて変化する。農業は環境次第で大きく収量が変化する。子どもたちもそれと同じで大人がどんなに手を施そうともお天道様次第で、成長をコントロールすることはできないのだ。しかし工学的に語られ始めると、子どもたちの成長をコントロールしようというふうに変わってきた。1990年代の終わりごろからである。学校は農場から工場に変わっていった。

 

人々の意識はたしかに内田のいうとおりに変遷したのかもしれないが、学校というものはもともと構造的には工場である。小学校から大学までのベルトコンベアに子どもたちはのせられ知識を注入される。そしてテストされる。テストという言葉は工学的な言葉だ。製品をテストするように、子どもたちをテストする。教師は通信簿に子どもの評価を記入する。ベルトコンベアを流れる製品に異常がないかチェックする監視員のように。異常があればベルトコンベアから不良品を排除する。不良、これも工学的な語彙だ。そしてこの言葉は学校でも使われる。学校教育システムに順応できない子どもは「不良」と呼ばれる。不良はベルトコンベアの先に進めないよう、入試という分岐点で排除する。優秀な製品である優等生から順にいい工場へ流される。

 

製品は工場から社会へと出荷される。学校というベルトコンベアの先にあるのも社会だ。社会はお得意様であり、社会が製品の規格を設定する。われわれの社会は資本主義社会であり、資本主義という性格を持った社会がどのような規格を持った製品を必要とするのか、それについて教育学者は考え文部科学省がベルトコンベアの仕様を変更する。資本主義とはたとえるなら膨らみ続ける風船のようなものだ。利益を出す、利益の一部を投資する、さらに利益を出すというのが資本主義の特徴で、風船が空気によって膨らんでいくように、資本主義社会はパイによって膨らんでいく。一国家市場が提供できるパイが限界に達すると今度は市場を海外へと拡大する。これがグローバル化である。市場が世界へと拡大するともちろん利益をさらに増やすことが可能になるわけだが、同時に競争が激しくなる。日本選手権が世界選手権になるわけだから。資本主義社会はこのようにしてどんどん競争が激しくなり、その影響が学校にも及ぶ。つまり、日本選手権レベルの製品では海外の製品には太刀打ちできないので、世界選手権レベルの製品を作りだすベルトコンベアに仕様変更しなければならないのだ。

 

かつての学校は100人いれば10人くらいのそこそこにできる人間を生み出すベルトコンベアでよかった。10人くらいのそこそこできる人間とは、上司のいうことに素直に従う思考停止した学歴だけの人間だ。べつに独創的なアイデアを提出する必要はないし、英語も話せなくていいし、プログラミング能力もなくていい。しかし今の学校はそうではない。100人いれば1人のずば抜けた人間を生みだすベルトコンベアでないといけない。独創的で英語が話せてプログラミング能力もあるような学歴だけでない優秀な子。現在のベルトコンベアはかつてのものと比べてはるかに淘汰圧が強くなっている。昔の子どもは道草を食いながら家に帰っていたが、今では塾に直行する子どもばかりだ。そして、より優秀な子どもを生み出すために教師もまた強大なプレッシャーにさらされている。資本主義社会は破裂するまで膨らみ続け今後もさらに競争は激化していくので、これからの学校は1000人に1人の超ずば抜けた人間を生みだす仕様へと変更を迫られるだろう。

 

文部科学省はお得意様である社会の意向を汲んでひたすらベルトコンベアの仕様を変更してきた。その結果、上の世代がまったくかなわないようなずば抜けた若者を生み出すことに成功した。この意味において、学校教育システムは完璧に機能しているといえる。資本主義社会が要求する超優秀な若者を作りだしたのだから。しかしそれはベルトコンベアを流れる子どもとそれを監視する教師に強大なプレッシャーをかけ続けた成果であり、多くの子どもと教師の大きな犠牲の上に成り立っている。資本主義社会の過激な要求を満たすために、多くの子どもと教師が苦しんでいる。学校はより強いプレッシャーを与え、それに耐え抜いた子どもはたしかにずば抜けた能力を持った。しかしそれに耐えられなかった子どもは仕様が変更されるたびに増えていった。少子化で子どもが減っているにも関わらず、不登校の子どもが増え続けている。多くの教師が心を病み休職している。労働環境があまりにブラックなために教員志望者が年々減り続けている。これらはすべてベルトコンベアの淘汰圧が強すぎるせいだ。そしてそれは限界まで強まっている。

 

冒頭で学校教育システムは岐路に至っていると書いた。社会は今後さらに質の高い製品を求める。そのためにより優秀な製品を生み出すベルトコンベアへの仕様変更を迫るだろう。しかし、子どもと教師はすでに限界をむかえている。今後さらにきつくなればますます多くの子どもと教師は学校へ通えなくなり、教員志望者はいなくなるだろう。文部科学省はこのまま社会の要求をのみつづけるのだろうか、それとも子どもと教師を守るのだろうか。教育は一体何のために、そして誰のためにあるのだろうか?