自動運転バスに乗った感想

市の実証実験で自動運転バスに乗ってきた。

運転手が乗ってはいるが、基本的にハンドルは握らず、何かあった際に少し触る程度。

普段使っているバスに機械を実装して自動運転できる仕様にしてあった。市が委託している企業の方の説明を受けながら、約二十分くらいのルートを巡った。

どのように運行されているかというと、ルート上の建物などを3Dマッピングで学習させ、スピードなどはあらかじめプログラミングさせておくのだという。バスにカメラを設置し、入ってくる情報をもとに運行する。

これ、たとえば雪が数十センチつもったりすると、あらかじめプログラミングしておいた景色と変わっているので運行できなくなるらしい。

駅前から県立博物館、再び駅前にもどってくるルートで、比較的交通量の多いところ。滑らかな運転で驚いた。たまに急ブレーキがかかることはあったが、問題ないレベル。横断歩道を渡っている女子高生の集団がいて、けっこうバスに近いところを渡っていたので、バスが割と手前から急ブレーキをしたのが一番ヒヤッとした。とはいえ、事故寸前というレベルではない。

けっこう路駐が多くて、それを避けるときは反対車線にはみ出るわけだが、対向車が向かってくる場合もあるわけで、それももちろんちゃんと計算してはみ出るタイミングをはかっている。

交差点を曲がる際に横断歩道を渡ってくる人がいるとき、歩いてくる人、走ってくる人、自転車でくる人、いろいろいるが、スピードを計算してどれくらいで横断歩道に到達するかをはかっているらしい。あくまで自分の感覚との比較だが、割と遠めに人がいる場合でも止まるんだなと思った。

今回の実証実験では、ルート上にある小学校の生徒も乗車したらしく、乗車中に運営会社の社員が説明しているとき、居眠りしてしまった子もいたらしい。でもそれは、それだけ安心して乗っているということだから、嬉しい反応だったと言っていた。

なかなか興味深かったのは、バスが左折するタイミングを見計らっていたところ、譲ってくれる車がいたとき、完全に止まっているわけではなくクリープ現象でジリジリ進んでいるとき、バスが発進できなかった話。人間なら、クリープ現象程度ならサッと発進するが、自動運転の場合、完全に止まってくれないと発進できないらしい。

今回乗車して思ったのは、技術的にはもう自動運転車を導入できるレベルになっていること。ここまで進歩しているとは驚きだった。あとは、イレギュラーな出来事にどれくらい対処できるかとか、事故が起こったときに誰が責任をとるのかとか、そういう細かいところを詰める段階にはいっている感じ。いやぁなんか、すごいね。

あと、説明を聞いていると、人間ってやっぱりすごいなと思わされた。当たり前にやっていることでも、それを車でやろうとするととても高度な技術が必要になる。何十キロのスピードで車を走らせながら、入ってくる景色、あそこに人がいるとか、路駐してる車、対向車、もろもろを高スピードで脳処理しながら手や足に信号を出している。改めて考えるとすごい。

自動運転が社会に実装されることがいいことなのかどうか自分にはよくわからないが、なんだか、AIの進歩と相まって社会が急速に変化していることを感じた。

外こもりして考えごとをする

試験も終わったので、自治体のキャンペーンを利用してホテルに泊まる。いわゆる外こもりというやつ。

窓の向こう側で、製紙工場から流れる大量の水蒸気様の煙を見てなんとなく考えごとをしている。風に流されて揺蕩う煙っていいな、ぼっーとずっと見ていられる。

仕事に行くまでのちょっとした時間とか、チェックアウトまでの時間とか、そういう期限がある時間って、他に比べて貴重に感じる。限られているから希少性を感じるのだと思う。なんか、大事にしなきゃと思ってしまう。

あれ、でも、人間は死というそもそも限られた時間を生きているのに、なぜか無為に過ごしてしまいがちなんだよな。これはなぜだろうと考えてみるに、現代は限りなく死が遠ざけられているからだと考えた。死が遠ざけられているというのは生物としていいことだと思えるが、人間は人生に意味を求めてしまうから、死をよりもっと身近なものとしていないといけないらしい。ちょうど体調を崩したり、骨折などして身体の自由がきかなくなったときに初めて、健康のありがたみを実感するように。

 

思考の生成の瞬間に立ち会う。これウケるだろうなと思って、いざ話してみるとウケが悪かったりする。逆に、その場でふと思いついたことを言うと思いのほかウケることがある。

どこかの大学教授も本で同じことを書いていた。その教授曰く、その場で思いついた話というのは、聴衆は教授の思考の生成に立ち会えたことだから貴重な瞬間に立ち会えた、だからではないか的なことを書いていた。うろ覚えだけど。

たとえ結果を知らなくても、録画したものよりもリアルタイムで観る試合のほうがドキドキハラハラできる。それはやっぱり今この瞬間に行われているからで、会話とか講演などにおいても、事前に考えたものよりも、その場で思いついたもののほうが新鮮さがあって好まれるのだろう。

 

第二種電気工事士の実技試験を受けてきた

昨日、大学にて第二種電気工事士の実技試験を受けてきた。10月にあった筆記試験は、自己採点だが96 点でパスできたので実技試験に進んでいた。

自分のところは公表問題6だった。全13問のうち、6はまぁまぁな難易度。一番時間がかかる7じゃなくてよかった。

試験室は大学の講義室で、自分の受けた試験室は40人くらいいた。どういう事情か知らないが、二人欠席していた。一万円も受験料を払って、せっかく筆記をパスしたのにもったいない。

着席時刻手前にトイレに行ったのに、コーヒーを飲んだせいで試験中にトイレに行きたくなった。コーヒーを毎朝飲むからといって、試験日に飲むのはよくないなと遅まきながら知った。

緊張していたせいか、ケーブルストリッパーでシースを剥いだり、長すぎた銅線をカットするとき手が震えた。それでも、この前のフォークリフトの試験よりは緊張しなかった。前の人が全然終わってなくて、あ~残念と思った。

筆記も実技も独学で臨んだ。とはいえ、この時代、ユーチューバーの解説動画などタダの教材があふれているので独学で全然いける。まったく、ありがたい時代である。本当にガミデンキチャンネルにはお世話になった。合格したら投げ銭しておこうと思う。

そんな切羽詰まっていたわけじゃないけど、終わったあとは解放感がすごかった。でも、なんだかんだ、受験勉強以来、勉強らしい勉強をして楽しかった。試験に臨む緊張感、金を払ってるからちゃんとやらないといけないという義務感、こういうのはときどき味わっておくのもいいな。大人になって勉強の楽しさを知ったみたいな人がけっこういるけど、あ~なるほど、共感できる!趣味と実益を兼ねて、今度は簿記をとろうかなと思っている。

 

『今晩泊めてください』を観た

シュラフ石田という毎日人んちに寝泊まりしている人に密着したフジテレビのドキュメンタリー。

たしかヤフーニュースでもこの人のことが記事になってて、泊める人がいるのは全然それでいいと思うが自分なら泊めるのは嫌だというコメントが一番共感されていた。

自分も泊めない人だが、こういう人がいたほうがまぁ世界も面白くなるんじゃない?的な他人事なスタンス。

なんだかんだでこういう生活をできるのは一つの才能で、風邪をひいたらどうするのかとか、洗濯などどうするのか、野宿する日も夜遅くまで突ったってる日もたくさんあるだろうし、そういうのを不安に思わない、最低限の気遣いをしつつ相手を不快にさせないくらいずうずうしい、その他もろもろをやってのけてしまうのは才能である。シュラフ石田さん、見た目も無害そうな感じだし、なんか飄々と生きてる感じ。死ぬまで人んちに泊まり歩くのが夢らしい。ということは、別に彼女も嫁も子どももいらないということだろうし(さすがに連れも泊めさせるほどずうずうしくはないだろう)、そこを覚悟できるのもやっぱり才能である。こんなふうに考えると、人んちを毎日泊まり歩くというのは、実践するのはとても難しいことで、それを当たり前に何年もできているのはすごいことである。この才能を羨ましいとは思わないけど。

泊めてくれる人は、女子大生から子ども3人を育てる夫婦、80歳のおじいちゃん、花火大会の特等席まで用意してくれるお兄さんまでいろいろ。すげえなと思ったのは、今まで泊めてくれた人が集まれるオフ会を開いているところ。コミュニティ作っちゃてる。オフ会で、泊めてくれる人たちは、シュラフ石田のことを飽きがきてるとか変わってしまったとか言う。それでもみんながシュラフ石田に愛着を持っているのが伝わってくる。

思ったのは、一期一会、行きずりの全く知らない人だからこそ話せることがあるということ。そして、話すことで少し救われるというか、楽になれるということがある。その話し相手としてシュラフ石田はぴったりなのだ。

これはどうしょうもないことだが、こういうのを何年も続けることで、知名度があがっていき有名になり、やり始めた当初の味みたいなのが薄れたりなくなってしまう。オフ会に参加していた80歳のおばあちゃんが嘆いていた。まぁこれは売れるバンドやユーチューバーへの、売れてない頃から応援していたファンの嘆きと同じようなものなんだろう。

奇妙な矛盾に引き裂かれる

大学生のときにこうなりたいと思っていた自分に近づけてて、やりたかったことがやれている、そしてやりたくないことはやっていないというまさに理想的な状態に今ある。

個人的なレベルにおいて、自分の人生に満足している。退屈していないし、楽しんでいる。それは身体においても、まごうことなき事実で、大学生のときよりも今のほうが髪がふさふさになっているのだ。この前ふと、生え際を見たら、以前より毛量が増えていて驚いた。増毛も植毛も、育毛もしていない。というか、大学生のときに将来が不安になってアデランスに行っていたことがある。そのときよりも今のほうが髪がふさふさである。それはなんといってもストレスフリーで健康的な生活を送っているからである。

話がそれた。個人的なレベルにおいて自分は自分の人生に満足している。ところが、自分はいつ死んでもいいと思っているし、人間は早く絶滅するべきだと思っている。だから同時に、自分は、自分の人生にうんざりしている。より正確に言えば、人生に満足していると同時に、人間であることにうんざりしている。

学生のころまでは、人間が幸せになるためにはどうしたらよいかとか、善く生きるためにはどうしたらよいかという視点から個人の人生なり社会システムなりを考えていた。そのなかである程度の思想というか解決策を見出した。

学生を卒業してしばらくすると、もう少し広い視野を持てるようになって、それはもちろん自分の生き方やスタイルともつながっているわけたが、時間がたつにつれて、人間のつくりだしたシステムはがんじがらめになってどうにもできない状態になってしまっていることに気づいた。もはや人間の活動ではなく、存在そのものが問題であり、存在そのものを抹消しなければ問題は何一つ解決しないのだと思い至った。

環境問題にせよ、戦争にせよ、貧困にせよ、それを解決するために多くの人が日々奮闘している。そういった人たちは、解決するのだという希望、希望があるからこそ活動できている。そういった姿勢に茶々を入れたくないが、もう自分としてはうんざりしてしまっている。それらがいつまでたっても解決しないのは、それらが解決してしまうと困る人たちがいるのだ、だから邪魔をしている。こうなるともう、解決策は一つしかないではないか。コロンブスの卵と同じである。

人生に満足しているから別に死にたくはないが、同時にうんざりしているからいつ死んだってかまわないという気持ち。この矛盾した気持ちに折り合いをつけるために、子どもは必要ないと思い至った。自分の子どもはいらないし、できれば誰も子どもをつくるべきではない。人間が少ないほど、問題も小さくなっていくからである。とはいえ、人間社会という視点も入れるなら、作りたい人は作ればいいということになる。社会システムを徐々に縮小させていったほうが、いきなり消えるよりもおそらくいろんなダメージが少ないだろうから。

『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良感想犬』

素晴らしい。解説読んで泣きそうになったの初めてだわ。

オードリー若林のエッセイ。『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)』も素晴らしいエッセイだったが、こちらも素晴らしかった。

若林、本当に落ちこぼれだったのか?アラフォーになるまで新自由主義を知らなかったのか?なのになぜ、こんなに人の心を動かす文才にあふれているのだ?

なによりすごいのは、アラフォーになって、何も知らないから東大生を家庭教師にして、物事を学ぼうとする姿勢だ。普通、プライドというか見栄が邪魔しちゃう。年下にバカにされるんじゃないかと。でも、そこらへんは大丈夫だたんだな。

笑っているようで目が舌打ちしている。P32

「先生、知ることは動揺を鎮めるね!」P35 

ぼくはきっと命を「延ばしている」人間の目をしていて、彼らは命を「使っている」目をしていた。ゲバラカストロの「命の使い方」を想像した P76

この国は世間を信仰している。それが、俺が3カ国に行って感じた一番大きい他の国との違いだP326

いい表現だなぁ。

資本主義、新自由主義の押し付けてくる広告やら価値観の息苦しさ、日本の世間特有のしんどさから逃れるためにキューバやモンゴルへ。

あぁ、こういう旅の仕方があるんだなぁと面白かった。若林、その国の文化や歴史をしっかり予習して現地に向かうんだな。

父親のことも書いている。なんか、家族の仲がとても良いのは驚きだった。芸人って、なんか家族仲があまりよくないイメージがある。父親がずっと味方でいてくれたというのは、芸人という売れるかどうか分からない仕事を持つ人にとって心強かっただろう。

キューバに向かう飛行機から見えた夜景。光がほとんどないのを見て、資本主義国ではないことを実感したという。夜に経済活動をするための明かりではなく、眠るまでの明かり。

夜景がキレイということは、資本主義国においては、それだけ働いている人がいるからで、その裏側を想像できてしまう人間は、もはや夜景を楽しめない。人々がブラックな労働をすればするほど、夜景のキレイさは増してゆく。無垢な人は、裏側を想像することなく、夜景のキレイさに酔いしれる。そして無垢な人間ほど、人生を楽しめるのだ。それが良いことなのか、悪いことなのか、自分には分からない。少なくとも自分はもう夜景を楽しめない。

20歳のとき「芸人になる」と言うと応援してくれた友人と久しぶりに会った若林。そこでしつこく年収を聞かれて渋々年収を言った若林は「頑張ったね」という言葉を期待する。しかし返ってきたのは「ズルい」という言葉だった。

あー、そうなるのか。分かる、分かるけどねぇ。まぁ、必死に米を作っている農家が時給10円なのに、必ずしも必要でないお笑いをやってる人間が何千万も何億も稼いでいたら「ズルい」という言葉が出てくるのも分かる。でもそこに至るまでの苦労とか、CreepyNutsのDJ松永をはじめとして、若林が多くの人を救っていることとかを考えると、やっぱりそこは「頑張ったね」という言葉を、友人なら出してあげたいよなぁ。

にしても、この作品も含めて、若林のエッセイは唯一無二。あの感性とそれを言語化できる能力は若林にしかないものだと思う。

 

タイミーのCMを観て思ったこと

タイミーのCMについてのネット記事を読んだ。

CMは、高校生くらいの娘を持つ会社員のお父さんがタイミーに行き、帰宅後、娘から「お父さんって人が好きなんだね」と言われ「かもなぁ」と返すという内容。ネット記事はこのCMについて、人が好きだから働いてるんじゃねえ、家計を支えるためにタイミーせざるを得ないんだと憤る内容だった。

この記事を読んだあと、テレビでタイミーのCMを観て、あぁネット記事のやつだ、確かにそのとおりだわと思った。

人が好きだからタイミーをやる人間なんて、100人のうち一人いるかどうかというレベルだろう。スキマ時間があるからお金を稼ぐ、家計を少しでも助けるというのが大半の理由で、それを「人が好きだからタイミーをやる」という、イメージのすり替えをしようという魂胆が透けて見える。

「おいしい牛乳」のような、量を減らすというネガティブな点を、女性や子どもが持ちやすいよう改善しましたと無理やりポジティブに受け取らせようとするのと同じ姑息さをタイミーに感じる。

ところで、このCM、タイミー批判のネット記事を読む前にも何回か観ていた。そのときはただぼぉーっと、特に何も思うことなく観ていた。ネット記事を読んで、なんだこの姑息なCMはと思った。

今回タイミー批判のネット記事をたまたま読んで、このCMが意識された。よくよく考えると、こうやって無意識のうちに何らかのイメージを、いろんな企業やメディア、政府、個人その他もろもろから植え付けられているんだなと恐ろしくなった。

毎日毎日、テレビやスマホ、新聞、人との会話あらゆるものから情報を受けている。そのいちいちに何らかの反応をしていれば、脳みそはオーバーワークしてしまうわけで、だからこそ右から左へ受け流す。それらは個々の興味に従って一部は意識にとどまり、その他は無意識の領域に追いやられる。無意識に追いやるからといってそれは消失するのではなく保存される。だから、タイミー批判の記事を読んだあとに、無意識から意識へと引き上げられる。

無意識に沈んでいるからといってそれは影響してこないわけではないはずで、もしネット記事を読むことなく、タイミーのCMを何回も観ていれば、タイミーが観る者に植え付けたいイメージをそのまま植え付けられていただろう。

このように考えてみると、自分があらゆるものに対して与えている価値観や考え方、感じ方が、果たして、自分が自分の意思なり、思考なり、価値観なりで与えたものなのか怪しくなってくる。たとえば、知り合いが、自分が会ったことのない人のことを「あの人、態度が悪いから近づかないほうがいいよ」と言う。そうすると、会ったこともないのに「あの人は態度が悪い」とアンカリングされてしまう。いったんそうやってインプットされてしまうと、その人に会ったときどうしてもそのイメージに引きずられてしまうことがある。

よく、自分の目で見て、自分の頭で考えて判断することが大切と言われる。たしかにそのとおりだ。でも、そもそも、自分の目で見るという最初のところで、これがどれだけ大変なのか。私たちのほとんどすべてがロシアとウクライナの戦争をこの目で見ているわけではない。メディアの与えてくる情報によって、なんかロシアが悪で、私たちはウクライナの側にいることになっている。それが正しいのか、そもそも判断できない。どうやってこの目で見て、自分の頭で判断するのか。

クマの件も、国分太一の件も、その他もろもろあらゆることがそうで、ほとんどすべての情報を私たちは直接受け取れない。クマなんて、そもそも受け取った時点で、自分が死んでいる可能性もある。あるいは、それすらメディアによる印象操作かもしれない。何が何なのか分からない。

情報格差、情弱とか言われるけど、これは情報に触れられるかどうかの問題ではなく、むしろ情報を与える側と与えられる側の格差の問題だと思われる。そういう意味で、私たちのほとんどすべてが情弱である。

ヤバいのは、スマホやらAIが普及したせいで、情報量が爆発的に増えてしまったことだ。脳みそは、オーバーワークになってしまうので、否応なしにほとんどすべての情報を受け取ってそのまま無意識に送り込む。でも、それらは無意識から自分の知らないうちに価値観を形成させてくる。こういう問題にどう対処したらよいのだろう?解決策がまったく分からない、というかもうないのだろう。自分たちは知らないうちに、いいように操られている。操られていることにさえ気づかない。疑うことが大切というけれど、疑うというのはものすごく負荷がかかる。一つくらいならいいよ、でも自分たちが日々受け取っている情報は無数なのだ、いちいち疑っていられない。

まぁ、解決策はないということで諦めるしかないのだろう。無知の知みたいな感じで、とりあえず現状を認識しておくくらいの、あまり効果のない策しかない。