読んだマンガや本の感想

宿泊したホテルに置いてあって、読んでみたら面白くて一気に12巻まで読んでしまった。

まず設定が見事だと思う。魔王を倒した後から物語が始まるという発想、すごくない!?主人公が仲間を集めていってラスボスを倒しに行くというのが普通の発想で、冒険もののアニメやゲーム、映画はそういう構造なのに、葬送のフリーレンは違う。

さらにすごいと思ったのが、主人公のフリーレンはエルフで1000年以上をゆうに生きて、冒険をともにした勇者ヒンメルは人間である点。冒険をともにした期間は10年で、人間にとってその10年はとても大きく価値がある一方、フリーレンにとっては一瞬なのでたいして意味をもっていない。だからヒンメルの葬式では、フリーレンは悲しみを感じていないのだが、それを見た周りの人がフリーレンを批判する。そのギャップに困惑したフリーレンは、自分は何も知ろうとしなかったと涙し、人間を知るため再び旅に出る。

人間に酷似したアンドロイドをつくる大阪大学の石黒先生は、どうしてアンドロイドを作るのかという質問に、人間を知るためだと答えている。Aを知ろうとするとき、Bを作ってその対比によってAを知ろうとするというのはよくある手法で、石黒先生はアンドロイドとの対比によって人間を知ろうとしている。

カズオ・イシグロ(ここでもイシグロ)の『わたしを離さないで』という作品も同じだ。この作品は、人間に臓器を提供するためだけに生み出されたクローンたちの友情や嫉妬、恋愛を描いている。臓器を提供することによる死が確定しているクローン。自らの生が生まれながらに決められたクローンという存在を描くことによって、私たち人間の生の本質を問うこの作品も、クローンという対比を持ち出して人間を知ろうとしている。

1000年以上生きるフリーレンは、フェルンやシュタルクとともに冒険しながら、ヒンメルたちと冒険していた過去を想起する。そうして、少しずつ人間を理解していく。この作品が手塚治虫文化賞を受賞するのも納得で、この作品は単なる冒険マンガではないのだ。

それにしても、作者はこの作品をじつはギャグ漫画として構想していたのが面白い。たしかに、笑えるところがたくさんある。でも、なんで笑えるかというと、結局ズレを利用しているからで、これもやはり対比の問題なのだ。最強のフリーレンが、誰もひっかからないギミックに食われたり、紙飛行機を遠くに飛ばす魔導書のために面倒くさい頼まれごとを引き受けるのが笑えるのも、ギャップがあるからだ。本当に素晴らしい作品だと思う。

優れた作品は、作り上げられた文脈や世界と対比させて、自分自身あるいは世界や社会のべつの見え方を提示してくれる。上に挙げた作品もそうだし、個人的にはその最高峰に『進撃の巨人』があると思う。あれも、巨人のいる世界、そして主人公が壁の中にいる世界という虚構と対比させることで、読者や視聴者は、自分たちの生きる世界を深いレベルで知ることができる。

『葬送のフリーレン』はまだ物語の途中だからどうなるのか分からないけど、フリーレンが最後に人間をどう理解するのか楽しみだ。

 

著者は、幼いころ母を関節リウマチで亡くし、それが研究者としてのキャリアの出発点になっている。

自分も多くのアレルギーを抱えているし、最近話題になっている人食いバクテリアは、自己免疫疾患が関わっているんじゃないかと思っているので読んでみた。

リウマチ熱では免疫細胞が、関節や心臓の細胞をレンサ球菌と混同するようだ。なぜかというと、これらの細胞についている表面マーカーが、免疫システムにレンサ球菌だと認識させるマーカーと、ほぼ同じだからだ。レンサ球菌は自ら破壊行為をしながら、法律にきちんと従う善良な双子の弟を警察につきだす邪悪な兄のようだ。この細菌が犯人だと疑われている疾患は、リウマチ熱だけではない。複数の免疫疾患について、レンサ球菌が関わっている疑いが見られる。免疫システムが何か危険なものと間違えて健康な組織を攻撃することを、交差反応という。免疫細胞が互いによく似ているという理由で、異なるふたつのものを見境なく攻撃してしまう。こういった交差反応の裏でいくつかの細菌やウイルスが糸を引いている、と研究者はにらんでいる。P93

うーん、これが答えのような気がする。

外部から来たウイルスとかは免疫細胞が必死に食い止めようとするわけだから、数時間で身体が壊死していくことは考えにくい。

でも、普段常在しているレンサ球菌が交差反応をひきおこしているとしたら?本当に怖いのは、敵ではなく寝返った味方ではないか?だって、味方が寝返ったら、だれも身体を守ってくれないわけだから、そりゃあっという間に身体が壊れていくだろう。

人類は長い歴史のなかで、外からやってきたいろんなウイルスやら細菌やらにやられてきて、医学はその闘いに勝利してきた結果、外からやってきたウイルスによって死ぬことはなくなってきた一方、今度は逆に自壊しはじめてきたような気がする。その一つが、自己免疫疾患で、自分の身体が自分の身体を攻撃することによって死んでしまうのだ。これは、都市の浄化が進みあまりにキレイな環境になってきたことや、抗生物質の多用によって体内の細菌の多様性が失われてきたことなどが、自己免疫疾患が増えてきた理由としてあげられるのだろう。

 

ネットニュースでよくこの本が登場するので読んでみた。結婚はコスパが悪い?の章と中国のレポが印象に残った。

アンケートの質問の仕方で結果が全然変わってくるというのはよく聞く話だが、「まだ結婚するつもりはない」という回答を、「いずれ結婚するつもり」として「結婚したい」側に組み込むのはなかなか強引だな(笑)そこから「日本人は9割が結婚したいと思っている」と解釈して政策をつくるのはひどい。裏に婚活関係の権益がいるのだろうか。

下方婚はしたくないという女性が多くいて、そうすると学歴も年収もある女性は釣り合う男性がいないから結婚せず、学歴も年収もない男性も釣り合う女性がいないから結婚できない、という文筆者の赤川の分析にはなるほどと思った。

自分は学歴はあるが年収はない。そんな自分は結婚できようができまいが、(決して強がりではなく)どっちでもいいと思っている。婚活したことはないし、マッチングアプリは入れてない、だからといってべつに結婚したくないわけでもない。意外と自分みたいな人間も多いんじゃないかと思う。というか、結婚に限らず、さまざまなことで、したい/したくないに二分できるのかなと思う。

たとえば、アメリカに行ってみたいかと聞かれたら、まぁ行ってみたいかなと思う。で、べつにアメリカに行く金も時間もあるし行こうと思えば行けるけど、だからといってじゃあ行くかとはならない。行ってみたいとは思うけどべつに行きたいとも思わない。結婚もそんな感じ。

 

中国の章では、26歳の文筆者が、中国は日本よりはるかに発展してて日本はすでに完敗だと述べている。とはいえ、中国は今不況らしいからどうなんだろうな。

完敗だと感じた文筆者は、もっと若い奴に任せてほしいと述べている。自分も、文筆者の立場に同意する。

しかしなぜ、世界中で年功序列がまかり通っているのだろうか。たとえば20代や10代の人間が総理や大統領になっている国がないのはなぜなのか?ビジネスの世界では20代や10代のトップがいるのは普通なのに、なぜ政治ではじいさんばかりがトップなのか。もちろん芦屋の市長みたいに20代の長はいるけど、県レベルや国家レベルではほとんどいない、それはなぜなんだろう?多くの人が、高齢政治家は害悪だと思っているが、だからといって若い人が行政の多くを占めることもない。アメリカ大統領選でさえ、記憶力がないじいさんと頭のおかしいじいさんの闘いになりそうである。それはなぜなのか?

なかなか、奇特というか、興味深いというか、読み始めたら面白くて3巻までついつい読んでしまった。

出てくる人みんなちょっと不器用だなと思いつつ、だからこそ、なんかいいなと思っちゃう人間関係。

45歳のおっさんのこの鈍感さはなんだと思うし、まぁだからこそ物語が成り立っているわけだし、24歳のこの女の二面性は現実でも普通のことなのかなとか、こういう不思議な恋愛関係?ってあるのかなと思った。

自分はヤニ吸わないし、吸う奴の近くにはいたくないし、ヤニ吸う人間が世間の端っこに追いやられるのは歓迎だけど、スーパーの裏でヤニ吸うこういう人たちが完全に排除されなければいいなと思う。端っこさえもなくなるような社会は、あまりに息苦しい。

ヤニだけじゃなく、さまざまなことで、端っこのほうで、端っこだけはうまく見過ごしてくれる社会であってほしい。

名古屋のJK・JDを見て思ったこと

4月の10日間、関東から九州まで青春18きっぷでひたすら電車旅をした。

電車に乗ってたらもちろんJKJDも乗ってくるわけだが、名古屋だけちょっとおかしいな。スカートがみな一様に短いし、ティックトックやってるのか知らんが、スマホに向かってピースしたり、ずっと髪を直したりしていた。自分の目の前に座っていた四人組の子たちは、みんな可愛く垢抜けていて、目の保養になったと言いたいが、それ以上に疲れた。

自分は基本、電車のなかではスマホを触らずずっと外の景色を見ている。名古屋行きの電車はロングシートの向かい合わせだったので、目の前に女子たちがいたことになる。だからずっと目線を上にあげていた。JKJDを見ていたら何言われるか分からないし、下手したら通報されるかもしれないと思ったから、早くこいつら降りないかなと思いながら外の景色を見ていた。

そう思っていたのはおそらく自分だけではなかった。女子たちが電車に乗ってきたとき、自分の目の前には40くらいの中年おじさんが座っていて、女子たちはおじさんを挟むようにして座った。それまでおじさんの横はべつの人が座っていて、駅についたら入れ替わるようにして女子たちが座ってきた。そしたら、おじさんの眉間にシワが寄ってじっと目を瞑っていた。すごく不機嫌そうな顔になったので、こちらは吹き出しそうになって焦った。名古屋駅の一駅前でおじさんは降りていった。駅についておじさんが立ち上がりで女子に足がぶつかり、おじさんは「すみません!大丈夫ですか!?」と謝り降りていった。名古屋では、おじさんはJKに敬語を使うんだなぁと思った。

可愛い子たちが自分の横に座ってくると普通は嬉しいと思うわけだが、実際そういう場面に出くわすと、それ以上にストレスになる。なにか粗相をしてしまうのではないかと緊張するのだ。嬉しさよりも恐怖が勝る。

これは時代のせいもあると思う。若くて可愛い子は本能的に見てしまうが、視線はハラスメントになるので制御しないといけない。理性が本能に打ち勝たないといけない時代。これってまぁしんどいわけよ。よくよく考えればめちゃくちゃなことなんだから。これは本当にストレスになるので、いっそのこと目の前に若くて可愛い子がいないほうが楽なのである。自分も中年のおじさんも、JKJDが乗ってくるまでは気楽にしていたのだ。

しかし、名古屋以外ではほとんどが素朴な感じだった。長野や三重、大阪、兵庫で見た子たちは、素朴だった。もちろん、名古屋以外でもじろじろ見たりはしていないが。

はぁ、疲れるなぁ

竹やぶ、なかなか手にはいらん。

竹やぶを間伐して、たけのこ取ったり、間伐した竹でいろいろ作ろうと思い、まずは町役場に相談したら、「たけのこ振興会に相談してみたらどうですか」と言われたのが昨年12月。

その振興会の会議で、県の総合事務所の農林課や竹林を整備するグループを紹介されたのが今年3月。

自分は、一人で黙々とやりたいので、グループの整備する竹林は見学だけにしておいた。県の事務所の方に、森林組合を紹介され、その森林組合から教えてもらった人に今日会いに行った。

てっきり竹やぶを紹介してくれるのだと思って行ったが、ポッと来ただけの人にいきなり紹介するわけにはいかないと言われた。冷たい人ではなく、整備している山を見せてもらったり、いろいろやっていることを説明してもらったりしたのだが、いかんせん竹やぶを手に入れるという目的が達成されなかったのでショックだった。

森林組合からの紹介とはいえ信用できるか分からない、この先継続して竹林整備できるのか、そこが分からない以上、自分も安易に紹介できない、あなたはちゃんとやれるかもしれないけれども、もし放置してどっか行ってしまったら俺の責任が問われるから、そこを理解してほしいと。

まぁそうだよなと頷くしかない。いくらちゃんとやりますと言ったところで、実際ちゃんとやれるかどうかは、今証明できないのだ。

自分のような竹林整備をしたいとおもう人間はほとんどいなくて、奇特な人だなと竹林関係の人によく言われる。そもそも竹林に関わろうという人がほぼいないなかで、やろうという意欲を持った自分でさえ、手に入れるのに苦労している。一方で、放置し荒廃した竹やぶや山林は至るところにある。もうどうしようもないね。

うーん、難しいなぁ。山や竹やぶを手放したいと思っている人はごまんといて、一方で山や竹やぶを欲しがる人もたくさんいる。しかしこれがうまくマッチしないのだ。そしてどんどん荒廃していく。

どうしたもんかね。

 

久しぶりに旅行ではなく旅ができている

今、長野の松本にいる。

昨日の夕方、横浜から電車に乗ってやってきた。青春18きっぷのおかげでこういう旅ができている。行き先をその時の気分で適当に決めている。

松本は初めて来るのでいいところなのかどうか分からなかった。ビミョーだったらぶらぶらせず大阪まで行こうかと思っていたが、駅を出てキレイな街だったので、連泊して今日は松本城を散歩しようかと思う。

今はカプセルでダラダラしているが、カプセルの外から外国人観光客どうしの会話が聞こえてくる。松本が外国人によく知られている街で驚いた。このカプセルホテルは駅から近いし、安いしキレイだから外国人もよく泊まるのだろう。外国人は東京か京都ばかりだと思っていたが、日本のいろんなところを知っているようだ。互いに情報交換している。

「どこに行くの?」

「今日は塩尻に」

「どこそれ?松本?」

「うーん、まぁここからすぐのところ」

ゴールデンウィークはどこ行く?」

ゴールデンウィークって日本だけの言葉だと思うけど、外国人も普通に知ってるんだな。というか、それだけ長旅できるのが羨ましい。

「福岡、九州」

「どうやって行くの?ヒコウキ?デンシャ?」

外国人どうしの会話で、たまに英単語ではなく日本語の単語が出てくるのは興味深い。

「デンシャ、ローカルトレイン」

たぶん青春18きっぷのことを話している。

「イチマンニセンエン」

「安いな!」

ユーチューブでアニメを観ている外国人の反応を時々視聴しているのだが、そのおかげか外国人が何を喋っているのか何となく分かるようになった。コメント欄も英語なので読めるようになってきたし。外国人が日本語をアニメを観て覚えるような感じで、英語を少しだけ勉強している。

昨日ラウンジでマンガ読んでたら、関西人のおじさんが外国人観光客と、酒とツマミを一緒につまみながら会話していた。こういうとき関西人のおじさんを羨ましく思う。彼らは普通に誰かれとなく話かけられるもんな。おじさんの英語は拙かったが、外国人も簡単な単語で分かりやすく答えていた。自分はシャイなのでマンガを読みながら背中で聞いているだけだった。

 

高校のときに読んだ評論で、旅行と旅の違いについて、目的があるかないかスケジュールが決まっているかいないかという違いがあるというようなことが書いてあったと何となく記憶している。

学生時代は、当て所のないふらふらした旅をよくしていたが、大学を卒業すると、べつに会社や役所で働いているわけでもないのにできなくなった。自分の場合は、時間とか金の問題ではなく、悪い意味でバカじゃなくなってきているのが原因だと思う。

以前は、何も考えることなく思い立ったらすぐに旅に出ていた。何となくのだいたいの行き先だけ決めてふらっと旅に出られた。でも今は、体調がもつかなと不安になる。べつに持病を抱えているわけではないし、なんなら学生時代よりも今のほうが、体調もいい。でも、旅先で、コロナとか連鎖球菌に感染したらどうしようとか、南京虫いたらやだなとか、もろもろ考えてしまう。学生時代はそういった、さまざまなリスクを一切考えなかった。バカだからである。

そういう意味では、若いうちに、野宿しながらとか、めちゃくちゃな旅をしておいてよかった。海外も行っておいてよかった。行きたいと思ったところは全部行っておいてよかった。思い立ったが吉日ということわざは本当にそのとおりだと思う。

 

読んだ本の感想

自分は、友達を必要としていないし、人が集まるところには行きたくない内向的で静かな人間で、でも社会は外向型の人間を求めているから生きづらい。ということで、内向型人間を励ましてくれそうな本書を読んでみた。著者自身も内向型の人間で、期待どおり内向型を励ましてくれる一冊となっている。

内向型と外向型は、脳の作用からして違うというのはなかなか驚いた。脳内の血流が内向型のほうが多くなるらしく、思慮深く物事を考えられるという。落ち着いていて、じっくり物事を考え、人の話に耳を傾けることのできる内向型は、実はリーダーとしての素質がある。なぜなら、部下の意見に耳を傾け、持ち前の思慮深さで利害関係を調節し、成果を出すことができるからだ。

著者は、SNS疲れなど、外向的であることに疲れる人が増えている昨今、これからは内向型の人が活躍する時代が訪れると述べている。

とまあ、本書は内向型の素晴らしさを科学的な視点から述べてくれ、それはそれで嬉しいし、内向型が生きやすい社会に今後なっていくかもしれないなぁと思ったわけだが、資本主義システムが内向型をもてはやし始めて、企業が内向型をリーダーに据えたり、積極的に表に出そうとする動きがで始めたら、それはそれで面倒くさいなと危惧した。内向型は、少なくとも自分は、そういう事態を全力で避けるし、何より注目を浴びるのが大嫌いなのだ。ひねくれている自分は、資本主義システムはこうした内向型を、自らをさらに止揚させるための養分にするのではないかと憂慮している。

 

はてなブログもやっている著者の一冊。

著者のブログもたまに読んでいる。ブログや本書も含めてかなり大ざっぱにまとめると、彼は合理化による不合理性を描いている。本書も、キレイになっていく都市や人間が、そのキレイになっていく過程のなかで失ってしまったものを扱っている。

汚いよりはキレイなほうがいいし、臭いよりはいい匂いのほうがいいし、不健康よりは健康なほうがいい。誰もこれを否定できないからこそ、すべてが一方の価値に向かって突き進んでいく。そうすることでなにが起こるかというと、奇妙なことに、生きづらい社会になっていくのだ。よい方向に向かっているはずなのに、なぜか息苦しくなるという矛盾。

接客の仕事をした経験のある人ならみな共感すると思うが、クレーマーの大半は中年以上の男性であり、残りは中年以上の女性だ。つまり、クレーマーは全員中年以上で、怒鳴り散らして不快にさせる若い客はいない。少なくとも自分は、若い客に横柄な態度をとられたことはない。それどころか、みな丁寧な言葉遣いをしてくれる。それはやっぱり、著者が言うように、社会が健康的で清潔で、道徳的な秩序あるものになってきたからだと思う。そこから取り残された者が「老害」と呼ばれているのだ。

しかし、こうした老害がたくさんいる社会のほうが、合法と違法のグレーゾーンが押し拡げられ生きやすい社会ともいえる。人間は誰しもだらしない部分を抱えているから、グレーゾーンが広いほうが気楽に生きられる。また、だらしない人間を見ることで、あんな人にはなりたくないと思いつつも、下には下がいる、ああいう人間でも生きているんだから自分は大丈夫だと思える。

社会が清潔になっていくことはいいことだ。しかし、そうした物腰の柔らかい、丁寧で清潔な人間が増えていくと、それが社会が人間に求めるデフォルトになり、求める人間の水準が高くなれば、その水準に合わせる努力も大変になる。もちろん、その水準に届かない者も増えていくわけで、そこが息苦しさや生きづらさにつながってくるのだ。ホームレスの排除や歌舞伎町の浄化というのは、社会のグレーゾーンを狭めていく行為であり、それは一見まともな人にはなんの関係もないように見えて、実は見えない生きづらさをすべての人間に感じさせるものとなる。

老害」という言葉は比較的最近の言葉だと思うが、おそらく昔は今の基準でいう老害だらけでそれがデフォルトだったから、老害という言葉が存在しなかったのだ。しかし、社会が清潔で道徳的なものになっていくなかで、飲酒運転や禁止されている区域での喫煙をしたり、ちょっとしたことで怒鳴ったりする人間が「老害」認定され、社会からあぶり出されるようになった。

著者は、こうした合理化の過程で生まれた非合理性、そしてこの合理化を資本主義が徹底して推し進めていくことに対して、これでいいのかと問いかけている。自分も、著者の立場に同意する者だが、これが難しいと感じるのは、結局これはもぐら叩きにすぎないと思っているからだ。ある問題を叩けば、べつのところから問題が頭を出すのはどうしょうもない。今の社会は行き過ぎだと思うけれども、行き過ぎと感じるレベルは個々によって違うわけで、ちょうどいいところなんて存在するのだろうか。分からない。自分は著者と違って、諦めている。

 

撤退という言葉は、逃げるつまりネガティブな語感がある。その論とは何だろうなと思って読んでみた。

内田樹の問題意識は、ずっと自分が感じていることでもあった。

…国力が衰微し、手持ちの国民資源が目減りしてきている現在において、「撤退」は喫緊の論件のはずであるにもかかわらず、多くの人々はこれを論じることを忌避しているように見えるからです。P6

本当にそのとおりだと思う。

これは国家レベルだけではなくて、地方自治体レベルでも同じで、自分の住んでいる町も、人口がどんどん減ってきているのに、ほとんど車が通らないバイパス道路を延伸し、たくさんの税金を使って美術館を作っている。考え方が昔と変わらないのだ。行政にしろなんにしろ、資源が減っているのに、さらに人をよんで拡大しよう、お金を稼ごうという考えのもとで行動している。

今考えるべきは、将来の痛みをいかに最小に抑えるかという撤退のあり方であって、どうしたらさらに前進できるかではない。もちろん税金の配分の問題や、建設会社を倒産させないために、新しく道路を作るのだろうが、将来そういったインフラをどうやって維持するつもりなのだろうか。企業は資本主義システムのなかに取り込まれている以上ひたすら前進せざるを得ないが、行政は企業とは違うのだから、どのように撤退すれば将来受けるコストやダメージを最小にできるかという視点をもたないといけないと思う。

能登地震で、半島の多くの道路が破壊されてしまった。たしか立憲民主の議員だかが、インフラ維持のコストを考えると、過疎地域のインフラを復旧すべきか放棄すべきか考えるべき時が来ているみたいなツイートをしていたと思うが、こうしたことの是非を議員や住民がもっとしないといけないと思う。

内田は、里山消滅のリスクや人間の分散された社会の豊穣性について述べていて、自分もそれは認めるが、そうした豊穣性とインフラ維持のコストを天秤にかける時が来ていると思う。個人的にはすべての道路を直すのはもうやめたほうがいいと思っているし、過疎地域のインフラ復旧もすべてを税金で賄うのは辞めるべきだと思っている。内田はこれについてどう考えているのだろう。

このまま拡大前進を続けると将来大ダメージを受けるのは確実である。これも少子化対策と同じように、分かっていてもみんな考えないようにしているのだろうか。

 

ちょっと気になっているギフトエコノミーについて知りたくて読んだ。

カルマキッチンというギフトエコノミーを実践するレストランの話がのっていた。料理には値段がついておらず、おかれた封筒の中に任意のお金を入れて渡すのだという。全くお金を払わなくてもいいが、実際はそんな人はいないらしい。なぜギフトかというと、自分の食べた料理の代金は、前のお客がすでに払ってくれているという考えだかららしい。そして、自分が払った分は、次のお客の食べる料理の代金となるという考え方。

たしかに、これもギフトといえばギフトなんだろうが、自分が気になったのはお金じゃないといけないのだろうかということ。

ギフトエコノミーが資本主義に対抗するものであるとしたら、たとえば農家なら米や野菜をお金のかわりに払うとかでもいいのだろうか、そういうやりとりをしているお店とかサービスはあるのだろうか。

「営業」という概念が気になっている。なにかのサービスを提供して、お金を受け取るというのが営業だと思う。そこにはお金のやりとりが発生し、税金を払わないといけない。

しかし、お金のかわりに米や野菜を受け取った場合、それも営業になるのだろうか。110万以上の価値のあるものを受け取ったら贈与税が発生するというのは読んだことがあるけど、何かのサービスを提供して受け取ったものの合計が110万以下なら大丈夫なのか。

田舎ではよく、道路の隅に野菜を置いた無人販売所があり、あれは野菜をもらうかわりにお金を置くシステムだが、それがお金ではなくて、べつの野菜だとか本だとか楽器なら、そこは販売所というよりは交換所であり、お金のやりとりが発生していない。販売所なら営業になるが、交換所でも営業になるのだろうか。カルマキッチンよりもこうしたシステムのほうが、ギフトエコノミーといえると思うし、資本主義に対抗するシステムであるといえそう。ほんの小さな抵抗だけど。

自分も、そうしたほんの小さな抵抗システムを作ってみたいなと考えている。べつに資本主義が嫌いなわけではなくて、ひねくれているだけなんだけど。

久しぶりに飲み会に行ってきた感想

竹やぶが欲しいなーと思い、地域でたけのこを生産している会に連絡したところ、竹やぶの紹介をしてくれる人に取り次いでもらった。昨日竹林整備している人に普段活動している竹林の案内をしてもらい、少し手伝いもした。作業後、今日の夜、情報交換したいし、ホウトウを作るから家に来ないかと言われ、いろいろ聞けるしいいかと思い行くことになった。

自分は友達づきあいをもうしていないし、誰かと飲みに行くこともないので、飲み会というものに参加するのは何年かぶりで、時間が近づくにつれだんだん行くのが憂うつになってきた。たかが飲み会なのに緊張してお腹がはってきた。学生のころ、ゼミで食事会があったとき、途中で食べ物を飲み込めなくなって吐きそうになったのを思い出した。たぶん軽い会食恐怖症なんだと思う。行くまでにネットで、飲み会を途中で帰る方法をずっと調べていた。

そもそも、竹やぶが欲しくなったのも、たけのこを売って小遣い稼ぎしたり、竹細工したりという目的の他に、誰にも会う可能性のない空間を確保したかったというのがある。誰にも会わない空間を確保するために、人に会わなければならない、飲み会に行って関係を構築しておかなければならないというのは本末転倒というわけではないけど、面倒くさいなぁと思った次第。

時間が来たので会場に行くと、一緒に作業した人の他に、竹林整備しているグループのメンバーが数人来ていた。32の自分以外は、みんな70をこしているおじいちゃんおばあちゃんだった。食べ物を飲み込めないかもしれないと思ったけど、差し出された猪の燻製を普通に食べられて良かった。同時に、自分のひ弱さに辟易した。

グループがどんな活動をしているかとか聞かされた後、自分がなんで竹やぶを欲しくなったかとか普段どんな仕事をしているかとか話した。その後は、おじいちゃんたちの昔の話になってついていけたりついていけなくなったりした。

仕事のことをきかれ、便利屋みたいな感じですと答えた。実際そんな感じだが、自分の都合で適当に働いているので、フリーターというか毛の生えたニートに近い。いろいろしてますねと説明したら、いろいろできるのねと好意的に取ってくれたので良かった。

同級生や結婚、彼女のことを聞かれなくて良かった。実際話すことなんてないからである。同級生たちが今何をしているかは、知らない。議員になったのがいるが、それを話すとグループと議員の橋渡し役にされそうなので、聞かれなくて助かった。

時間が進むと子連れ夫婦が途中参加して、話題の中心はそちらに移った。子連れ夫婦はよく喋り、いろんなことに積極的な移住者だった。

おじいちゃんおばあちゃんたちはよくありがちな若者への否定、説教ではなく、温かく受け入れてくれる雰囲気を持っていた。ところが自分がひねくれているせいか、それはそれで少し気味悪さを感じた。うーん、なんていえばいいのかな、すべてが何も間違っていないと逆に受け入れられないのだ。ダメだな、うまく言語化できない。

自分が内向型の人間なせいか、こうやってどんどん人間関係が構築されていくのは恐怖である。外向型の人間にとってはどんどんチャンスが拡がっていくわけだからいいのかもしれないし、内向型の自分もできることがさらに増えていくからいいことといえばいいのだが、自分の時間が削られていくかもしれないのは苦痛である。田舎なので、人間関係の網目が密で、昨日初めて会った人が高校のだいぶ上の先輩だったりして、あーめんどくさくなりそうと思った。すごくいい人なんだけど。

竹やぶのことについてはどういう感じなのか話がつかめたので、早く帰りたくなってきた。3時間すぎたところで、会はお開きとなった。なんかすでにグループの仲間にさせられそうな感じになっているが、ためになる活動だけ参加しようかと思っている。竹やぶは、グループ活動になりそうなので、他の候補地を探したい。

飲み会っていうのは本当に大変だと思った次第。仕事でもないのに、参加しないといけない会社員は本当に苦痛だろうな。基本一人で働いている自分には絶対無理だ。滝沢カレンはいつも「トイレに行く」と行ってそのまま飲み会を抜けて帰るそうだが、それで友達と縁が切れたとテレビか何かで言っていた。

飲み会がもっとラフな感じで、言い訳とか口実なしにふらっと参加できて、ふらっと抜けられるものならいいのになぁ。日本人は内向型が多いと思うのだが、もっと内向型が生きやすい社会になったらいいなぁと思う。

 

阪神電車版弾丸フェリーで大分・別府に行ってきた

阪神電車版の弾丸フェリーを利用して大分・別府に行ってきた。

阪神電車各駅から阪神御影駅御影駅からフェリー乗り場までのバス、神戸大分間のフェリーの往復代がしめて一万円ぽっきりという破格の値段で弾丸旅行できる最高のツアーを利用して、大分と別府に行ってきた。

当方、これから竹やぶを入手して竹を間伐してタケノコ農家になる予定。間伐した竹でいろいろ作りたいなと思い、竹細工で有名な別府に行ってみることにした。

19時に神戸を出港し、翌朝6時20分に大分市に到着する。商船三井のさんふらわぁ。出港する際に流れる「さんふらわ〜さんふらわ〜太陽に守られて〜♪」が頭を離れない。

弾丸フェリーはツーリスト用の部屋で、一部屋最大8人収容。隣とは短いカーテンで仕切られているが、前は丸見え。

船内はけっこう充実してて、お土産や食べ物、飲み物、おかし、ツマミなど売られていたり、ゲームセンター、レストランもある。大分はかぼすが有名なのでかぼすジュースを飲んだ。 

外で買ったものをもちこんでもいい。大浴場があるのが最高。神戸や大阪の夜景を見ながら風呂に浸かる。明石海峡大橋の下をくぐるときは、わざわざアナウンスしてくれる。下から見ることができるなんてなかなかない機会だから良かった。

 

6時20分に大分市に到着。朝マック食べて西大分駅から二駅乗って別府駅へ行く。別府駅から出ると早速竹でできたオブジェがあった。中には湧き出る温泉。

そこから少し歩いて竹瓦温泉に行く。歴史感じるレトロな温泉。温泉は6時30分からだが、この温泉は砂湯が有名らしく、8時からの砂湯に入ることにした。やっぱり温泉で有名だけあって、平日の朝っぱらから客が多い。

砂湯は1500円で、入ったら裸になって、専用の浴衣を着る。その後、砂場に行って、スタッフに砂をかけてもらう。重い。そしてじっと15分。じんわり身体があったまる。その後、シャワーで砂を落とし、湯船に浸かった。いい経験になった。

竹瓦温泉を出た後、朝飯がてら資さんうどんを食べる。うどんとごぼ天を頼む。いつも思うが、ごぼ天110円は安いよな。サクサクでうまい。

その後、竹産業会館へ。竹でできた作品はどれもすごくて、竹の可能性を感じた。竹ってこんなものまで作れるんだと勉強になった。教室見学が別日だとできたらしく、見れなかったのは残念だった。

昼になったので、とり天で有名な東洋軒に行ったらめちゃくちゃ並んでたのでやめた。大分市に戻る。フェリー出港まで時間があったので、大分駅近辺を歩きながら県立美術館へ行ってみる。初めて大分市に行ったが、すごく洗練されたキレイな街だなと感動した。別府もキレイで風光明媚な街だったし、大分市もキレイ。山も近いし、海も近い。住みやすそうな街だなと思った。

県立美術館もキレイで現代的だった。著名な建築家の坂茂によって設計されたらしい。カラフルなタマゴ?みたいなモニュメントや、竹細工が飾られていた。三階の絵画も鑑賞。

その後、県立図書館に行く。ここもキレイで、何より雑誌の数がすごかった。今まで、全国のいろんな図書館に行ったが、大分県立図書館が雑誌の品揃えは一番多かった。陳列されている本もすごくて、時間があればゆっくり眺めたかった。

歩いて、西大分のフェリー乗り場に戻る。28000歩も歩いていた。足が棒になった。今度は弾丸ではなくもう少しゆっくり旅したい。