阪神電車版弾丸フェリーで大分・別府に行ってきた

阪神電車版の弾丸フェリーを利用して大分・別府に行ってきた。

阪神電車各駅から阪神御影駅御影駅からフェリー乗り場までのバス、神戸大分間のフェリーの往復代がしめて一万円ぽっきりという破格の値段で弾丸旅行できる最高のツアーを利用して、大分と別府に行ってきた。

当方、これから竹やぶを入手して竹を間伐してタケノコ農家になる予定。間伐した竹でいろいろ作りたいなと思い、竹細工で有名な別府に行ってみることにした。

19時に神戸を出港し、翌朝6時20分に大分市に到着する。商船三井のさんふらわぁ。出港する際に流れる「さんふらわ〜さんふらわ〜太陽に守られて〜♪」が頭を離れない。

弾丸フェリーはツーリスト用の部屋で、一部屋最大8人収容。隣とは短いカーテンで仕切られているが、前は丸見え。

船内はけっこう充実してて、お土産や食べ物、飲み物、おかし、ツマミなど売られていたり、ゲームセンター、レストランもある。大分はかぼすが有名なのでかぼすジュースを飲んだ。 

外で買ったものをもちこんでもいい。大浴場があるのが最高。神戸や大阪の夜景を見ながら風呂に浸かる。明石海峡大橋の下をくぐるときは、わざわざアナウンスしてくれる。下から見ることができるなんてなかなかない機会だから良かった。

 

6時20分に大分市に到着。朝マック食べて西大分駅から二駅乗って別府駅へ行く。別府駅から出ると早速竹でできたオブジェがあった。中には湧き出る温泉。

そこから少し歩いて竹瓦温泉に行く。歴史感じるレトロな温泉。温泉は6時30分からだが、この温泉は砂湯が有名らしく、8時からの砂湯に入ることにした。やっぱり温泉で有名だけあって、平日の朝っぱらから客が多い。

砂湯は1500円で、入ったら裸になって、専用の浴衣を着る。その後、砂場に行って、スタッフに砂をかけてもらう。重い。そしてじっと15分。じんわり身体があったまる。その後、シャワーで砂を落とし、湯船に浸かった。いい経験になった。

竹瓦温泉を出た後、朝飯がてら資さんうどんを食べる。うどんとごぼ天を頼む。いつも思うが、ごぼ天110円は安いよな。サクサクでうまい。

その後、竹産業会館へ。竹でできた作品はどれもすごくて、竹の可能性を感じた。竹ってこんなものまで作れるんだと勉強になった。教室見学が別日だとできたらしく、見れなかったのは残念だった。

昼になったので、とり天で有名な東洋軒に行ったらめちゃくちゃ並んでたのでやめた。大分市に戻る。フェリー出港まで時間があったので、大分駅近辺を歩きながら県立美術館へ行ってみる。初めて大分市に行ったが、すごく洗練されたキレイな街だなと感動した。別府もキレイで風光明媚な街だったし、大分市もキレイ。山も近いし、海も近い。住みやすそうな街だなと思った。

県立美術館もキレイで現代的だった。著名な建築家の坂茂によって設計されたらしい。カラフルなタマゴ?みたいなモニュメントや、竹細工が飾られていた。三階の絵画も鑑賞。

その後、県立図書館に行く。ここもキレイで、何より雑誌の数がすごかった。今まで、全国のいろんな図書館に行ったが、大分県立図書館が雑誌の品揃えは一番多かった。陳列されている本もすごくて、時間があればゆっくり眺めたかった。

歩いて、西大分のフェリー乗り場に戻る。28000歩も歩いていた。足が棒になった。今度は弾丸ではなくもう少しゆっくり旅したい。

 

年齢を重ねた今のほうが知識が身についている

子どものときは脳がスポンジのように知識を吸収していって、年をとると覚えられなくなっていくとよく聞くけど、自分に当てはめるとそれは一概にそうともいえないんじゃないかと思いはじめた。というのも、30をこして数年たつが、今のほうがむしろいろんな知識を吸収できているからだ。

本を読んでも人の話を聞いても、すんなり理解できてイメージできるようになったことが大きい。これまでは、何を言っているのか理解できないから知識として定着しなかった。数学が苦手だと、何が何なのか分からないから解けないわけで今まではそういう状態だった。それがいつの間にか、コツを掴んだのか、解く手順がイメージできるようになったため、一つが解けるとその類似の問題も解けるかの如く、周辺の知識がすらすらと頭に入ってくるようになった。

料理で例えてみる。料理がまったくできない人間が、カレーを作れるようになりたいとすると、作れるようになるまでにはいろんなことができるようならないといけない。まず、人参や玉ねぎやジャガイモ、肉を買う。それらを包丁で切っていく。油で炒める。水を入れ煮込み、あくを取り除く。煮込んだらルーをいれる。

で、カレーを作れるようになったら、今度はその応用でシチューや肉じゃがを作れるし、肉じゃがを作れるならその応用でコロッケを作れるようになる。自分は今この段階にいて、カレーが作れるようになったから、その応用でいろんな知識が身につくし、いろんなことができるようなった。やったことがなくてまだできないことも、こういうふうにすればいいだろうというのがイメージできる。だから、楽しい。

20代のときは頭でっかちで、こういうことができるようになりたいと思いつつも、それをどうしたらできるようになるのかというのがまったく分からなかった。あのときは理想と現実が乖離しててしんどかったし、人にも批判された。

いろいろもがいて、でも運良く自分にフィットする環境に出会えたことで、少しずついろんなことができるようになっていった。ここ何年かでカレーを作れるようなったことで、他のこともその応用でできるようになった。

いろんなことが繋がりだすと、アナロジーというかメタファーというか、離れているものどうしを同じものとみなせるので、これはあれを応用したらできるんじゃないかとイメージできる。そうしたことを考えるのは楽しい。

子どものころに比べると記憶力では衰えているだろうけど、いろんな知識が身につき理解力が上がっているので、知識の吸収力ではそれほど違いはないように感じる。この段階まで来るのに苦労したが、登山と一緒で、山頂に到達するまでは大変だが、そこに至れば視界が開け世界を俯瞰できるようになりいろんな知識が有機的に結びつき結晶化する。

こういうことを知っている人が、人はいつからでも学べるし伸びると言っているのだと腑に落ちた。

読んだ本の感想

矛盾社会序説

あー痛いところついてくるなーという本。

noteに書かれた文章がまとめられた本で、大ざっぱにいえば、あちらをたてた結果こちらがたたなくなったという具体例が各章で述べられている。

私たちは自由に生きたいと思う。そして社会はそれを少しずつ叶えてきて、その結果べつの問題が発生してしまいました、残念。

女性の社会進出を促進することは正しい。家で専業主婦させて、しかも家事育児に給料はない、これは明らかにおかしなことだ。社会進出したい女性の権利を守ることは大事だ。そしてこれは、晩婚化や非婚、少子化トレードオフなのも仕方ない。子どもを産むことは女性にしかできないが、出産や育児休暇でキャリアを犠牲にしたくない。

世の中の多くはもぐら叩きのようなもので、こっちの問題を叩けば、そのせいで今度はあっちに問題が出現するのだ。

その他、ひきこもりやヤクザ、地方からの若者流出、障がい者の殺人などいろんな話が語られる。

著者の詳しい経歴は紹介されていないが、文章から、どういう道を歩みどんな人間になったのかがなんとなく分かる。治安の悪いところで育ち、低俗な人間が周りにたくさんいたのだろう。でも勉強に励みそこから抜け出した。地元へはもう戻りたくないだろう。でも、社会の矛盾に鋭く切り込めるのは、やはり治安の悪いところで育ったからこそというのはあるように思える。だからこそ、普通に育ってきた人が、見えているはずなのに見ていない駅前でビッグイシューを売るホームレスに、著者は気づいて毎回購入してあげられるし、誰も寄り付かない船場で釣りをするホームレスに話しかけることができる。これが彼の強みでもあるのだ。普通に育ってきた人間には普通ヤクザの知り合いなどいない。そしてヤクザ(しかも組の幹部)に「ヤクザなんていなくていいのではないか」と問うことなどできない。でも彼にはできる。こうした強みが、他の人には見えない社会の歪みや矛盾を見抜く目を与えてくれたのだ。

 

革命か戦争か

元オウム幹部の野田という人が著者。

オウムがグローバル資本主義への警鐘だったという副題が興味深くて読んだが、半分くらいは著者の生い立ちなんかで、そこにはあまり興味なかったから読み飛ばした。

よく、人には多面性があって、人のある一面だけ見て評価するのはよくないと聞く。それは組織にも当てはまるだろうか。

オウムはテロを起こした。そこだけみればオウムは断罪されるべきだ。テロに関わった者が死刑にされるのは当然だ。

だけど、バブルのあのバカげた時代に遊び狂っていた者と、その雰囲気にシラケて本当に意味のある人生を送ろうとした者、どちらがまともなのかいえばもちろん後者だろう。そして後者が救いを求めたのがオウムだった。著者もその一人で、東大に入ったあと、自分は社会のために勉強しようと励んでいたら、まわりはバイトにあけくれ女の子に気に入られるために服を買いまくったりしていたらしい。そして社会の雰囲気にシラけオウムに入信した。

著者はテロには関わらなかったため逮捕されなかったが、元オウムということで白い目で見られている。オウムやアレフと関わりがなくなった今でも、貧困問題を解決するボランティアを実践するネットワークへ参加することもできない。ネットワークを支える政治団体のことを考慮すれば、元オウムの人間と一緒に活動するのは都合が悪いからだ。

あー分かるんだけどな~。まともな感覚を持っていた人間が、入った宗教を間違ってしまったために、活動しにくい事態に陥ってしまう。頭もいいし、勉強もちゃんとしている、社会のために活動したいと思っている、それなのに元オウムということでにっちもさっちもいかない。なんだかなぁ。

著者は、脳科学者の苫米地と対談をしている。苫米地って人、賢いなーと思った。で、苫米地は、宗教っていうのは俗世間と関わらないという点でそもそも反社会的であって、オウムも政治に進出なんかせず、お山のうえで修行していれば良かったんだと話す。そうなんだよな、もし俗世間と関わらずテロなんか起こさずいれば、本の副題のとおり、オウムはグローバル資本主義への警鐘であり、アンチテーゼとして機能していたと思う。

結局、グローバル資本主義は世界を飲み込み、人々を分断し、トランプみたいなおかしなやつが大統領になっちゃったのだ。貧困は拡大し、人々は疲弊し、東横キッズみたいなのが出てくる。親が子どもにもっとかまってあげられたら東横キッズも生まれないかもしれないが、かまってあげられないほど厳しい労働環境にいれば、われわれは親も東横キッズも責められない。今のところ、グローバル資本主義に対抗するものがまったくないというのが現状である。

こういうのも矛盾社会の一つの例だ。苫米地がいうように、完璧なシステムなんてないわけだが、それでも価値観や宗教など、希望が持てるシステムというのが今まではあったわけで、希望が持てるというだけでもそれは人々の心の支えとなる。それが見出だせない今、絶望という死に至る病にかかる人が急速に増えている感じがする。個人レベルでは一体どうしていけばいいんでしょうね?

『ゴジラ −1.0』観てきた

以前テレビで録画した『シン・ゴジラ』を観たら面白くて、今やっている『ゴジラ −1.0』を観に行った。面白かった。

あぁいう迫力のある映画はやっぱり映画館で見るべきだな~と思った。厚着していったわけじゃないのに、終わったらめっちゃ額に汗かいていた。『JAWS』のオマージュかなというシーンもあった。邦画を観ていると、このくだりいる?みたいなシーンがあって辟易することが多いのだが、『ゴジラ −1.0』は物語としてまとまりがあって良かった。ゴジラの迫力とかリアル感もすごくて圧倒された。

ゴジラ −1.0』では、ゴジラは災害扱いされていた。ゴジラをどうするかの会議が災害対策本部で行われていたのだ。まぁ、そうだな、ゴジラの出現は地震とかの自然災害と同じなんかなと思った。『シン・ゴジラ』は現代で、『ゴジラ −1.0』は戦後の設定なのだが、個人的には戦後の作戦のほうが上なんじゃないかと思った。とはいえ、ゴジラは身体が破壊されても再生する能力があるから、『シン・ゴジラ』の作戦のほうがいいのかな?

未知の災害に対して、人あるいは国家はどう行動するのかというシミュレーションとして観ても面白い。『シン・ゴジラ』はそこら辺も描かれていて、待ったなしの状況なのに、政府の動きの緩慢さが滑稽だった。そしてこれが現実でも起こりそうで笑えない。

しかし、ゴジラはなぜ東京を目指すんだろうな笑どちらの映画もなぜか知らんが、わざわざ都心に向かっていた。都心にわざわざ向かう理由はなんだろうか。

家に帰っているとき、なぜかふとエイリアンが思い浮かんだ。エイリアンシリーズを観ていると、アメリカ人は、軍事利用など、エイリアンを役に立てようとして失敗しているという物語の構造になっていることに気づく。エイリアンもゴジラもともに未確認の不明生物だが、アメリカという国は自分のコントロール下において利益を得たがり、日本はとにもかくにも蓋をしたがるのかもしれないと思った。ゴジラは動く原発みたいなものだから、アメリカならまず倒す前に捕獲して原子力利用できないか考えるのかなとか思った。

エイリアンは結局、利用しようとしたが失敗し殺されるというある意味人災なわけだが、シリーズ通して毎回失敗ばかりしている。まぁでもこれがアメリカの強さなのかなと思った。あの国がイノベーションをたくさん起こせるのは、失敗しても立ち上がれる環境だからで、一度失敗したらもうだめだという日本では、とりあえず利用する前に倒さないとという考えになるのだろう。仮にゴジラを捕獲して原子力利用、軍事利用できるなら日本は必ず世界の覇権を握れるだろう。でも映画ではその可能性を考慮するシーンは一切ない。失敗したらエラいことになるからそんなことは考えないのだろう。誰も失敗したときの責任をとりたくないから挑戦しないのだ。まぁもちろん、ゴジラに比べたらエイリアンも雑魚だろうから、アメリカでも利用してやろうとか役にたてようとか考えないかもしれないけど。

 

過程と結果とキャンセルカルチャー

給食でうずらのたまごを食べた小学生がのどをつまらせて亡くなった。それに対して保護者は、予見できなかったのかと学校を批判している。

亡くなった事自体は悲しいことだが、それからのいろんなできごとや対応については、なんだかなぁと思う。自分の住む県の各自治体も、当面うずらのたまごをだすことを控えたり、通常どおり提供したりと、対応はさまざまだ。

事故が起きたという結果が起こるまでの過程で、誰一人たまごをのどにつまらせて亡くなった子はいなかったわけで、何も起こっていない段階でうずらのたまごを提供しないと決定するほうが逆におかしい。もちろん、遺族や同じ子をもつ親からしたらやりきれないから、批判したくなる気持ちも分かるが。

どういえばいいんだろうな、過程には無限の世界線があるが、結果というのはその世界線が一つに決定された状態で、その決定された結果から、過去の過程を批判するというのは、不公平というかフェアじゃないと感じる。結果の時点から見れば、過去から現在までは一本の線を辿ってきたように見えるが、現在の時点から見ればその先の未来には無限の世界線が拡がっているのだ。こういう思考が、数学者の対談本に載っていてなるほどと思ったから書いている。量子力学の二重スリット実験を想起したらわかりやすいと思う。スクリーンに粒子があたるまでは、粒子はあらゆる世界線を辿っているのだ。しかし、スクリーンに当たったら、そのうちの一つの世界が結果として存在している。

たとえば、これまでおそらく里芋やこんにゃく、ブロッコリーでのどをつまらせて亡くなった子はいないが、もしかしたら将来のどをつまらせて亡くなる子がいるかもしれない。あるいは牛乳や大豆のアレルギーで亡くなる子がいるかもしれない。こういう世界線は未来に向かって無限にある。うずらのたまごで亡くなる場合があるのなら、今言ったような可能性も十分ある。このような無限の世界線を考慮して予め対処しておくというのは、全知全能の神でもない限り不可能である。

それで今、世界中でキャンセルカルチャーがあって、日本でも東京オリンピックの開会式の音楽の担当だった小山田という人が、過去にいじめをしていたことが問題となって降板させられた。

たしかに、小山田のいじめは問題である。問題なんだけど、キャンセルカルチャーが一般的になってしまうと、みんながみんなの首をしめて自ら世界を息苦しくさせてしまうことになる。

たとえば、自分は今日常的に車に乗っている。今の価値観で、車に乗っていることを批判する人は誰もいないだろう。でも、将来車に乗っていることが悪だという価値観になり、それによってキャンセルカルチャーの的になる可能性は十分にある。車はもちろん大気汚染によって環境問題の原因になっているもので、将来の価値観が車に乗っていた者をキャンセルする可能性は十分に考えられる。

何をバカなと思うかもしれないけど、うずらのたまごだって事故が起こるまでは給食で提供されることが問題だと思われていなかったし、小山田のいじめだって小山田が子どものころは今ほどいじめがクローズアップされていなかっただろう。もしいじめが大きな問題だと認識されていたなら、雑誌で自分のしたいじめを得意気に語ってはいなかっただろう。

今問題視されていない行動や価値観が、将来問題視されキャンセルされる。それを予見して生きるというのは神でもない限り不可能であり、だからこそキャンセルカルチャーというのは問題なのである。たしかに、過去に起こした問題を不問にするというのは間違っているが、過去を掘り起こして表から消そうとするキャンセルカルチャーはすべての人間を生きづらくするだけで、自らの首を締めている。こういうカルチャーは早く衰退すべきだと思う。

学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか

広田照幸『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』を読む。

中高生あたりの若い読者や、教員など教育に携わる人を対象としているようだ。読みやすい一冊で、なるほどと思う箇所もあれば、うーむという箇所もあった。

学校はなぜ退屈なのか。これに関する話はなるほどと思った。学校ができる前の伝統的社会においては、基本的に農家の子は農家になり、鍛冶屋の子は鍛冶屋になる。親の背中にくっついて仕事を覚え、一人前になっていく。こういう社会では、生活と学習と仕事が一体化している。

ところが、近代資本主義が発達し、伝統的な社会が崩れてくると、子どもが親の仕事を継がないというパターンが生まれてくる。実際、現代では親の仕事を継いでいるという人のほうが少ないだろう。こうなると、子どもが将来どんな仕事につくか子どものときには分からないわけで、いろんなことを幅広く学んでおく必要が出てくる。だから、学校では基礎的教科を幅広く、すべての子どもに学ばせることになる。そうすると当然、算数には興味ないのに算数を学ばないといけなかったり、運動が嫌いなのに体育をしないといけなくなる。だから退屈なのだ。

本書では、目的と機能についても語られている。目的と機能で考えるというのは教育の話に限らず便利だなと感じた。広田は、テニスサークルの例をだして、テニスサークルというのはテニスをやるという目的のもと、テニスをやりたい人が集まっている。そこには、当然出会いの機会もあるわけで、テニスサークルにはもちろん恋愛をするという目的はないが、恋愛の場という機能も持ち合わせている。これが目的と機能の違いで、物事には少なからず、目的とはべつの機能が付随している。

コロナとかAIは、学校にも大きな影響をもたらしている。そんななか学校不要論を唱える人たちもいて、広田はそれに対して学校は必要だと説く。学校という知を教える場に、物理的な意味でみんなが集まり教育を受けることに意味があるのだ。だから学校は大切なのだと広田は言う。

学校は人格完成の場として、将来の社会を形成する人間を育成する。たしかに、学校はそうした目的を持つ場として機能している。しかし学校というシステムは、構造的に工場と同じであって、社畜という言葉にも現れているように、社会や会社の奴隷ともいうべき人材が育成される場としても機能している。そういう人間は果たして、人格の完成された人間であるといえるのだろうか。

とはいえ、退屈な場であらざるを得ない学校だからこそ、学校がある意味は大きい。学校とは、いうなれば新聞のようなものであって、新聞は自分の興味のない記事も自然と目に入ってくるという点で、興味のない教科も学ばないといけない学校と似ている。よくよく考えてみれば、興味があるとないのあいだにはグラデーションがあるというか、一概にあるなしで二分できるようなものではないし、今はなくても将来あるとかその逆ももちろんある。新聞記事を目にしていても、なんとなくの感じでいろいろ目を通して読んでいるし、不思議なんだが、朝気づかなかった面白い記事に夜気づいて読むこともある。学校もこれと同じなのだ。だから、学校に通わず自分の学びたいことだけ学べばいいというのは暴論で、ネットのエコーチェンバー効果みたいに、非常に偏った知識しか身につかず視野の狭い人間になるだろう。学校に通わないというのは自由なように見えて、その実不自由な人間になってしまうのだ。

それでも、学校というシステムに馴染めない子どもが一定数いるのは事実で、既存の公教育とはべつのシステムを持った公教育を並立させるほうが、多様性の時代に合った教育のありかただと思う。子どもにとって学校は生活の大半を占める場所なわけで、そこが自殺を選んでしまうほどあまりにストレスフルな場所であるなら、そこから逃げてもいいと教えなければならない。

やっぱり今の学校ってあまりに閉鎖的で狭くて忙しんだよな。教育学的にはその狭さが学習において大事らしいが、大学生になって自由な時間がたくさんできて旅をしたりすると、自分が高校卒業までにいた空間があまりに狭かったことに気づいた。世界は本当に広かったし、学校、特に高校で植え付けられた価値観とか考え方がいかに狭くてしょうもないものだったかに気づけた。

教育とか学校というのは考えれば考えるほど奥深いもので、いろんな批判や考え方があるべきで、逆に教育に対する考え方が社会に一つしかないというのは、ある意味教育の失敗である。なぜなら多様な考えのない社会は脆弱な社会であって、非常時に対応できないからである。ああでもないこうでもないといろんな考えや批判を表明できる社会のほうが健全で強靭である。

こういった一般層に向けた本は、教育学者である著者はあまり書いてこなかったらしいが、教育に限らず、学者は非専門家に対してもっと知見を紹介したほうがいいと思う。

 

読んだ本の感想

面白かった。

建設現場の入り口にヤクザが車を停めて妨害をする、その車をどけてもらうという「サバキ」の仕事を建設会社から請負った主人公が、そこからヤクザどうしの揉め事に巻き込まれていくという話。

総会屋にしても、この小説の揉め事にしてもそうだが、ヤクザってのは重箱の隅をつつくような金儲けをするなぁと思った。この小説は、産廃埋め立て場をめぐってのヤクザどうしの争いが描かれている。ゴミというのは絶対出るものだから、ヤクザがそこに目をつけるのは当然といえば当然だ。人間も埋め立てられるから都合もいい。

黒川博行は『後妻業』という小説で知った。この小説が出されてすぐに、紀州ドン・ファンが毒殺されたということで、まさに予言的小説だった。人間のどす黒い部分が、これでもかというくらい描かれている。

本当にまぁ、金儲けのためならあくどいことを平気でやる人間てのは、遠くで見てる分にはいいが、近くにいると殺してやりたくなる。一人、どうしょうもない人間がいて、たまたまそいつの子ども時代の通知表を見たが、いいことは一つも書かれていなかった。そして、本当にガキみたいなことを大人になってからも平気でやっている。ああいうのはどうやってあの年まで生きてきたのか、不思議である。ニュースでも、50すぎのいいおっさんがスポーツカーでめちゃくちゃな運転して事故起こして逃げたりしているのを見るが、ああいうのがこれまで一体どうやって生きてきたのか気になる。

 

『日本の気配』

武田砂鉄のコラムか何かを、なんかの雑誌でたまに見かけて、かゆいところに手が届くかのような、自分も含めてみんながなんとなく思っていることをうまく言語化してくれているから印象に残る。

この本の大半は政治のことで、批判だけ綴られているから、ちょっと食傷気味になった。最後の章の、コミュニケーション能力の話は、面白く読めた。信号待ちの数分にコンビニ入って雑誌読んで、青になる前にコンビニを出るのがルーティンらしいが、迷惑な人間だなと思う。毎日行くならたまには何か買ってやれよ。それでいてちゃっかり、何も買わない、信号待ちの数分だけ雑誌を読む著者に、最初は「ありがとうございました」と言っていた店員もある時言わなくなり、逆にある店員は唐突に「ありがとうございました」と言うようになったとか、コラムのネタにしている。嫌なヤツ。でも、こういう嫌なヤツだからこそ、こういうネタが書けるんだなとも思う。

 

リベラルアーツ、教養が社会で求められている。コンサルタント業などを営む著者が、様々な識者とリベラルアーツについて対談したものが収録されている。 

研究者や漫画家、僧侶など、様々な分野の識者と対談しているが、内容がビジネスの枠での話になりがちで、著者がビジネスパーソンだからなのだろうか。

大ざっぱにとらえれば、結局ビジネスという枠のなかで必要とされる教養みたいな、ん?それは、教養なんですかねとツッコみたくなる。必要とされるリーダーとか組織のありかたとか、社会の発展のために活かされる教養。ひねくれている自分からすれば、教養というのは自分を縛り付けるシステムから自由になるための技術なのに、それがビジネスのなかで語られると、その技術はシステムを拡大再生産させるための技術にすぎなくなってしまわないのかと思ってしまう。

 

そういう意味でいけば、同じ教養をテーマにしていても、上の本は山口周の本とは違う。

この本もいろんな分野の識者を迎えて対談したものを収録している。

著者の一人でもある深井はコテンラジオで知っていた。初めて聴いたときは、声の感じからして若いのに、すらすらと世界史を分かりやすく、そして深く、体系的に語っているから、「うわーこの人、すげぇな」と度肝を抜かれた。実際、まだ30代である。

この人も経営者だったりコンサルタントではあるのだが、ビジネスをうまくやるための教養という体ではないので、個人的には違和感なく話が入ってくる。

どの対談も興味深かったが、本郷和人の歴史の話は面白かった。歴史の研究者は、事実のみに即するか、事実のあいだを想像で埋めてストーリーにするかで二分される。出てきた史料に書かれていることを、ただ羅列していっても歴史研究者と名乗れるが、本郷はそうではなく、そのあいだを埋めてストーリーとして提示すべきだと言う。ストーリーとして提示できる創造性が研究者には必要だと説く。

歴史を意味するヒストリーには、物語という意味がある、ということは歴史は本郷の言うように、ストーリーとして提示されるべきだとは思う。もちろん、ミスリードを生む歴史が語られる可能性があるわけで、政治家がそれを都合よく引用するという懸念はあるが。

にしても、深井の、視点が増えるとオプションが増え、オプションが増えると決断ができるというのは納得できないな。決断ができると迷いがなくなり、現代の混迷から抜け出せるというのも納得できないな。そんな簡単なわけないし、ミスチルはいろんな角度から眺めてむしろ迷ったみたいな歌を歌ってたはずだし。