この感じ

今日は山に来てて、仕事で出た廃材を使って掘っ立て小屋の拡張を行おうとしている。これは自分のやりたいことであり、楽しいと思っていることで、何不自由ないわけだが、そんなとき、時々エアポケットに落ちたかのように、虚脱感に襲われることがある。この感じ、一体なんだろう?

誰かに強制されているわけではない、仕事につながるが趣味に近い、自分のペースでできる、完璧に楽しいと思える条件。それなのに、あーめんどくさい、ダルいなぁと思ってしまう。

もしかしたら、今日2時前に起きて、サッカー観戦するという不規則なリズムがもたらしたものなのかもしれない。自分は、少しでも生活リズムが狂うと、調子が悪くなってくる。とはいえ、たまにこの感じはやってくる。

『暇と退屈の倫理学』で、ハイデガーのパーティの件がどこかの章で書いてあって、それと似ているのかもしれないと思う。楽しいパーティに参加して気心の知れた友人と食事を楽しんでいる。なのに、ふと退屈だなと思ってしまう瞬間がある。その退屈さをハイデガーが分析していたと思うのだが、分析内容を忘れてしまった。本を読んだ数年前は、「そんなことあるか?」と思ったものだが、今ではそれが共感できる。年をとるとはこういうものなのかもしれない。

ABEMAの番組に、パチンコをやりながら軽バンで全国を放浪する中年おじさんが出ていた。本当に好きなことをしながら、放浪する車上生活。番組では無職と紹介されていたが、実際は投資家で、生活費は投資の利益とパチンコで勝ったお金で賄っているという。番組の出演者から、将来の不安などはないのかと聞かれていたが、「まったくない」と答えていた。うらやましがられていた。

これだと思うんだよな、結局のところ。何をしてても楽しめる能力、不安を感じない性格。これは天性のものなのか、後天的に獲得できるものなのか。

隣の家の人は独身で、会社を退職して年金暮らし?をしている。外出している姿をほとんど見ない。一体何をやっているんだろうと思う。うらやましいとは思わないが、家に引きこもって時間をつぶせる能力があるのはすごいなぁと思う。

中島らもが、教養の定義を、金を使わなくても暇をつぶせる能力と言っていたが、本当にそのとおりだなと思う。

 

初めてエンジンオイル交換をした

今日、車のエンジンオイルを初めて自分で交換した。前回まで整備工場で交換してもらっていて、中東問題でエンジンオイルが入らなくなると言われたので、じゃあ自分でやってみるかと思った次第。

4月にアマゾンでエンジンオイル3リットルを購入したときはまだ1999円だった。今は4000円くらいまであがっている。やべぇ。それでも、これまで整備工場では2000円で交換してもらっていたので、1999円でも高いなぁと思っていた。そこにドレンワッシャー、オイルポイパック、オイルジョッキ買うことになるので、プロにやってもらうより高くなる。整備工場に電話したら今は3500円で交換してると言っていた。入荷の目処は立っていないらしい。困ったなぁ。

いざやってみようとすると、あれ、どこのネジ外したらいいんだと困った。整備工場で見学して、ユーチューブで交換の仕方を観ていたが、どこだ?となる。やっとのことで場所を見つけ、トルクレンチで外し、古いオイルをポイパックへ。ネジをしめ、ジョッキで新しいオイルを入れる。とりあえず2.8リットルくらい入れた。

オイルレベルゲージで量を測るとネットにあったので、どこにあるんだと調べ、運転席のシート下にあった。そこで自分はバカすぎるのだが、エンジンオイルを入れたところに突っ込むのかと思い、入らんな、入れにくいなと思いながら入れて、でも全然量が分からないから何度もやった。アホすぎる。違うやん、普通にゲージが入っていたところで測るんやと後で気づいた。あまりにもバカすぎて、自分に辟易した。

結局1時間くらい格闘してどうにか交換を終えた。疲れた。でもやっぱり自分でやってみないとダメだなと思った。エンジンオイルを注入しているときに、あれこんなところにジャッキとレンチあるやんと気づいた。前のキャリイはボンネットをあけたところに収納されていたのに、次の世代のキャリイはなかったからあれなくなってるやんと思っていた。そしたら助手席下に収納されていた。

初めてやることって、エンジンオイル交換に限らずだけど、本当にまぁいろいろと気づきがあるな。プロからしたらこいつ何やってんだ?みたいなことを平気でやらかす。自分だけかもだけど。これで合ってるのか、分からんことだらけだから怖い。でもだからこそいろいろ気づくこと、分かることがある。

『どうすればよかったか』

筆者、姉、父、母の4人家族。姉が20代に統合失調症を患う。研究者である父と母は、それを頑なに認めず、姉を病院に行かせない。患ってから25年後、ようやく病院で統合失調症と診断され入院した。どう向き合えばよかったのかとの自問から、映画と本のタイトルになる。

映画を観たかったが、公開は2年前だった。本は今年発売され、新聞の書評で目にし読んだ次第。

まず第一に、筆者の藤野さん、よく耐えたなと思った。しんどかっただろうな。本では、自身の後悔や自責について書かれているが、個人的には、藤野さんはそのときできた最善の行動を常にとっていたように思えた。

自分を可愛がってくれた姉がおかしくなり、それなのに両親は病院に連れていかない。提案しても否定され拒否される。姉は、研究者である父を崇拝しているから、弟の話には耳を貸さない。

年をとり、両親に認知症の症状が出て、姉はさらに肺がんも患うという、なかなか厳しい状況のなかでも、藤野さんは支え続けた。本当にすごいと思う。

どうすればよかったんだろうな。もし弟の藤野さんが倒れたり、見捨てたりしていたら、この家族はどうなっていたんだろう。両親とも研究者だからお金には困っていなかっただろうけど。

この本は藤野さん視点の話だけど、両親も両親でやっぱりどうにかしないとと思っていたんだと思う。だから、自分の仕事を姉に手伝わせたりして、両親なりに努力はしていたんだろう。たけど、医者という世間体もあって、自分の娘がおかしくなったと思いたくないから、病院に行かせなかった。もっとも、当時は精神病院に入院しても、ろくな治療を受けられなかったらしいけど。

結局、分からない。どうすればよかったか。

 

こういうのはどうやって掴むのだろうか

海外戦を「日本戦の上位互換」と捉え、海外進出を「海の外に出ていく行為」だと思っていたのですが、フタを開けてみると、海外進出は、「海の外で確固たるポジションを確立している村の中に入る行為」でした。

そこで求められるのは、僕たち日本人がまったく体系化できていない「村に入る技術」です。

そのことを理解し、行動に移すまでにはずいぶん時間がかかりました。

先日、アメリカ演劇の有名な賞であるトニー賞を受賞した芸人の西野の言葉。

これ読んだとき、すごいなと思った。こういうのをうまく言語化できる技術が。

これを読んだとき、米津玄師のことを思い出した。米津玄師が、King Gnuの歌詞を担当する常田に、日本人の琴線にヒットするような曲の作り方を教えたというようなエピソードをどこかできいたことがある。

米津玄師といえば日本で一番売れている歌手であり、リリースされた歌はほぼヒットしている。彼は、どう作れば日本人の心に響くか、そういう方程式のようなものを持っているのだろう。そういう方程式をどのようにして作ったのだろうか。そして、それを教えてもらったKing Gnuの常田も、ちゃんと理解したからこそ、King Gnuもまた売れるバンドとなった。教えるほうもすごいが、教えて理解して売れる曲を作るほうもまたすごい。

こういう「コツ」のようなものは、一体どうやって体得するのだろうか。「骨」を掴んでいるからこそ、そこに適切な筋肉をつけられ、見栄えが良くなるわけで、ほとんどの歌手にせよ、その他のアーティストにせよ、「骨」がつかめてないからこそ、米津玄師やKing Gnu常田のように、毎回のヒットを生み出せない。

芸人の西田も、何をどうすればアメリカ人の琴線に触れるものが作れるか分かったのだろう。だからこそ、冒頭のように言語化できるわけで。

大谷翔平も、バッティングに関しては、何をどうすれば、どう打てるようになるのかが分かっているらしい。だから、あれだけの結果がでている。一方で、ピッチングに関してはそれが分からないからこそ、ピッチングのほうが面白いと言っていた。

「骨」を掴めたら、それはそれで面白いが、人生は、わからないほうがいいのかもしれないな。

 

家庭教師のマリアちゃん

フジテレビの『ノンフィクション』という番組に、女装をしている家庭教師のナカシママリアさんが出ていた。心も身体も男の、女装をしている45歳のおじさん。勝手に大阪か東京の人だなと思っていたら、名古屋だった。

個人的にすごく興味深かったのは、ナカシママリアさん本人ではなくて、その周辺環境。東京はへんな人が集まりやすいし、大阪はもともと変な人が多いところだから、こういう人たちはわりと受け入れられる環境だと思う。でも名古屋の人たちも、ナカシママリアさんを普通に受け入れていて、なんならすごく人気者だから驚いた。

マリアさんは、どこでもロリータの女装で出かける。家庭教師の仕事でも、ロリータの格好で向かう。家でも外でも常に女装をしている。生徒も、保護者もマリアさんを普通に受け入れている。

一番驚いたのは、家庭教師の仕事を増やすために、中学校の入学式に、手作りのチラシを持っていって、もちろん女装で配っていたところ。中学校側が関知しているか知らないが、女装したおっさんが校門の前でチラシを配っていたら、田舎なら不審者として通報されていたような気がする。マリアさんがすでにある程度有名だからかもしれないが、名古屋の人たちが彼を当たり前のように受け入れ応援しているところを見ていると、名古屋の懐の深さというか、かわった人を受け入れる土壌がすばらしいなと思った。

マリアさんは、カフェと学習塾を兼ねた店をやるのが夢だという。発達障害や不登校といった、普通からはずれている生徒を受け入れる塾。この番組を観て、なにかしら支援できたらいいなと思ったのは自分だけではないはず。

密着取材している番組スタッフが、社会のレールにのっていたらもっと楽に生きられたのではないかときいていた。失礼な質問だなと思ったが、彼は「楽」と「楽しい」は違うからと答えていた。いい答えだな思った。

日本人ってやっぱりクレイジーだわ

泊まってるホテルのvodをいろいろ観てたら、「裸村」というアダルト作品があって観てみた。

ある噂をたよりに、人里離れたある村を記者がフラフラになりながら訪れる。その村は生徒が裸で通って授業を受けている。授業はなぜか青空教室。外に黒板と椅子、机があって、そこで授業を受けている。催したら教室の端っこのほうでおっぱじめる。訪れた記者も女子高生とヤる。

アダルトビデオなので主にヤッてるのがメインなのだが、あいだあいだでパンをくわえた裸の女子高生が走りながら登校していたり、最後、裸の女子高生が何も貼ってない看板を見ていたり、噂をたよりにやってきた訪問者の前でいきなり放尿したりめちゃくちゃである。ここに来た者は取り込まれてしまうような、閉鎖的な村独特の不穏な感じもある演出も面白い。

撮影が、時代劇に出てくるようなセットで、その一角に黒板と椅子と机の青空教室があって、そこで授業を裸の生徒たちが受けている。一体、何をどうやったらこんな設定を思いつくのだろう?これ、だいぶお金がかかっていると思うが、こんなのが売れるのだろうか?資金を回収できるとは思えないのだが。エロいよりも面白いが勝った。

日本のアダルトビデオしか観ないのでわからないが、たぶん外国のアダルトビデオはこんな訳の分からんものではないと思う。単純にヤッてるだけで、こんなふざけた物語とか設定の作品はないのでないだろうか。

 

『イン・ザ・メガチャーチ』感想

いやー、すばらしい小説だった。すごかった。

この時代の空気や人間関係に対する解像度の高さが凄まじい。小説家だから当たり前なんだけど、言語化の能力が凄まじい。いろんな属性の人たちの、心の奥の嫌な部分をチクチクとつついてくるような、そんな表現がいたるところに散りばめられていて、あぁしんどいなぁとなる。

なんか最近やたらに、オーディションを経てデビューするまでの過程を公開するグループが多いなぁとか、ファンに名前がついてるなぁと思っていて、この小説を読んで、なるほどそういうからくりなのねと合点がいった。

自分には推しがいないし、だから金を使うということもないのだけど、それでもXGというグループのオーディションの過程を全部観て一時期は毎日MVを観ていた。それで、XGのファンには「ALPHAZ」という名前がついてて、最初「?」となったのだが、なるほどファンに名前がついているのもそういう意味があるのかと。

かつての昭和の芸能人とかアイドルというのは、一般人からしたら遠い存在だったのが、AKBのような会いにいけるアイドルが登場し、今ではアーティストとファンは一つの運命共同体、家族のようになっているようだ。家族なんだから自分の時間やお金を犠牲にして支えるのは当たり前で、メンバーが体調不良にでもなれば、しっかり休んでまた戻ってきてとなる。プロなんだから体調を崩すなとはならない。

オーディションの過程を動画公開するのも、過酷な競争をみんなで支え合って乗り越えたという物語をファンが共有することで、ファンを信者化させるためである。

一方で、この小説がすごいのは、かつて熱烈なファンだった者が登場するところ。推しの俳優である倫太郎が自殺したことで生活が虚無感に満たされた隅川といづみのもとに、自殺はデマだと主張するTomoyoが現れ、二人はすべては日本弱体化を企てる黒幕のせいという陰謀に傾倒していくことになる。ここで確認しておかないといけないのは、隅川といづみは単に騙されたのではないことだ。彼女らは日常の虚無感を払ってくれるものに進んで傾倒しにいっている。

人々が最も恐れているのは、意味のなさであり、退屈である。心の奥底では、こんなことにお金や時間をひたすら費やすのはバカげていると思っている。それでも、無意味さや退屈からくる虚無感と天秤にかけたとき、たとえバカげていると思っていても、推しにすべてを注ぐのだ。

この小説を読んでいて、特に隅川の章を読んでいるとき、これはオウム真理教となんらかわりがないなと思った。この小説に出てくる登場人物たちは、テロこそ起こしていないものの、自分の人生を自分でぶち壊しにいっている。でもすでに書いているように、推しのいない人生は彼女らにとっては虚無感に満たされたものでそもそも生きる意味さえないのだ。

なんか、資本主義もここまできたかという感じ。ここまで仕組んで金をまきあげようとしているんだな。読んでいて、やっていることが統一教会やオウム真理教と変わらんなと思うのだが。統一教会も、あくまで自発的に献金していると主張しているが、世間の人間は信者は騙されているという。ファンダム経済も統一教会とやっていることは変わらないように見えるが、こちらに対して世間は何も思わないのである。異常に見えても、まぁそれが彼らの生きがいになっているのだからと肯定する。

オウム真理教の幹部が、かつて第二のオウムはまた現れますよというようなことを言ったらしいが、令和の今現れたのはオウムよりももっとたちの悪いオウムだと思う。