学校とホース理論

大谷翔平選手とか藤井聡太くん、芦田愛菜ちゃんを見てると、明らかに我々凡人とは違う世界を見てるんじゃないかと思ってしまう。我々は、彼らの成績を、そのずば抜けたものを見て「天才だ」なんだというわけだが、当の本人はたぶん成績とはべつの軸で自己評価しているように見える。テレビやネットで観戦していると、同じプロの解説者が彼らのプレイを解説できないということが起こってて、文字通り彼らは異次元なのだと感じさせられる。おそらくどの業界、分野でもすばぬけた存在がいるはずで、そういった存在を生み出すのに学校が大きな貢献をしているのは間違いない。子どもにとって学校は巨大な存在だから。

 

ホース理論ってのは勝手に自分が作った理論で、ホースで水まきしたことがある人なら分かるが、ホースの先端を押しつぶすと、ぴゅーと遠くに水を飛ばすことができる。これが今の学校が置かれている状況をとてもわかり易く描いていると思うのだ。

学校にはいろんな役割があるが、その一つに社会が求める人材を育成するというものがある。そして、その社会とは資本主義社会のことである。資本主義社会では常に技術が発展し、社会で求められる人材もそれに応じて変化する。より詳しくいえば、求められる人材のレベルがどんどん上がっている。自分は今30代だが、小学校で英語は習っていなかったし、プログラミング教育もなかった。だが今の子たちは英語やプログラミングを習う。今はグローバル社会で、これからはAIと共存していかなければならない。それに対応した人材が必要だからこそそうした教育が行われる。自分が子どもだったときよりもはるかに要求されるレベルが上がっている。

これで何が分かるかというと、子どもたちの負担は時代が進むにつれて明らかに増しているということである。英語やプログラミングといった新しい負担が増えたかわりに、国語や算数といった従来の教科の負担は軽減されたのだろうか。たぶん違う。社会がより発展し、グローバル化し、求められる人材像はより高度に、そして複雑になったはずだ。それに応じて、学校に対する圧力は増した。

 

学校というのはちょうどホースのようなもので、学校というホースを押しつぶせばより遠くに行ける子どもたちが現れる。大谷選手や藤井くん、愛菜ちゃんのような、これまでの人が到達できなかった地点まで行けてしまうずばぬけた人間が現れる。このような観点から見れば、学校教育や教育行政は完璧に成功しているといえる。

グローバル資本主義社会が到来し世界と競争しないといけない今、ずばぬけた人材がいないと世界との競争を勝ち抜くことはできない。そして日本の教育は成功していて、ずば抜けた人材は生まれている。

 

では、学校教育はこのままでいいのかというともちろんいいわけがない。学校というホースを押しつぶすことで圧倒的な人材が生まれる一方で、つぶされてしまう子どもがたくさんいるからである。子どもの数は減っているのに、不登校の子が過去最高というのはそれを示している。子どもだけではない。圧力は教師にもかかっているわけで、心を病んで休職する教師が増え、教師になりたがらない学生が増え、その結果学校というシステムそのものが崩壊しようとしている。ホースを押しつぶせば当然ホースはつぶれるのである。

 

教育行政に関わる人間がどれだけ事態を把握できているのか知らないが、いずれにせよ根本的な変化を加えないと、学校が立ち行かなくなるか、日本が立ち行かなくなるだろう。ホースを押しつぶす力を緩めればずば抜けた人材が生まれなくなり世界との競争に敗れるかもしれない、その一方で圧力をこのままかけ続ければ学校というホースは近々崩壊するだろう。とてつもない難題である。

 

資本主義というシステムが終わらない以上、学校のほうを変えないといけないわけで、解決策の一つとしてはホースを何本か用意するというのがある。つまり、学校教育とは異なる教育を行う学校をもっと増やすというものがある。これによって、いろんな教育を受けた人材が誕生する。

今の学校教育は、一人の人材にあらゆる能力をつけさせようとしている。そうなると当然一人一人の負担が重くなり、潰れてしまう子もたくさん出る。

一方で、さまざまな教育を受けた人材が生まれると、一人ではずば抜けた人間には太刀打ちできないが、力を合わせれば太刀打ちできるかもしれない。社会が人間の集団だということを考えれば、べつにずば抜けた人材が一人いる必要はない。個性ある人材が集まった集団のほうがむしろさまざまな意味で合理的である。仮にすば抜けた人材が病気になったり死んだりすれば、その集団はとたんにたちゆかなくなるが、個性を持った人材の集団であればまだ損失はおさえることができる。そして後者のほうが多様性があるという意味でもこの時代に合っている。

 

なんにせよ、教育行政が現在の学校教育を維持している限り、遅かれ早かれ学校は崩壊する。問題は、教育行政に携わる人間に教育を根本的に変えられる勇気があるかどうかである。