平成の時代ももうすぐ終わり、新しい時代を迎えようとしている。社会は誰もついていけないほど速いテンポで進んでいる。教育も同様に、誰もついていけないほどのテンポで進んでいる。
僕は、これからの社会に必要な教育は、社会の多様性を守る教育だと考える。
僕が思うに、今の教育は子ども一人一人にあらゆる能力(生きる力や英語力、プログラミング能力とかもろもろ)を身につけさせようとしている。それは大事なことだと思うけど、そのせいで子どもはもちろん教師をはじめとする労働者も疲弊している。
これからの、グローバルでAIが浸透した世界で生き抜くためには、先にあげたようないろいろな能力が必要だ。でも、そうした能力すべてを身につけさせようとする教育は、一人一人にとってあまりに負担が大きすぎて、みんな不幸になるのではないか。
だから僕は、子ども一人一人にあらゆる能力を身に着けさせる教育ではなく、社会全体であらゆる能力を身につける教育にシフトすべきだと思う。これからは、個人ではなく、社会に焦点を当てた教育を行うべきだ。
このことついて、説明していきたい。
今の教育界の現状
今の子どもたちは非常に忙しい。やるべきことが多すぎるからだ。
27歳の僕が小学生だったころは、学校の帰りに友達とよく道草を食っていたけど、今の子どもたちはそんなことをする暇があるのだろうか。
子どもたちが使っている教科書はどんどん分厚くなっているという。学ぶべきことが多すぎるからだ。小学生の段階で英語を学ぶようになったし、プログラミング教育も始まろうとしている。
中学生になれば部活が始まる。
ヤフーニュースにあった記事だけど、GWの10連休でも普通に部活があるという。そりゃ強くなりたい、上手くなりたいという気持ちは分かるけど、せっかくの長い休みなんだから休むべきでは?
岐阜県のある中学校ではお昼寝タイムがあるという。
午後の授業で寝てしまわないようにお昼寝するのだ。これ自体はべつに悪くないのだけど、導入の経緯に驚いた。
多くの生徒が塾に通い夜遅くに帰宅する。そうすればベッドに入る時間も遅くなり睡眠時間が短くなる。そのせいで学校の授業で寝てしまう。そうならないためにお昼寝タイムを設けたらしい。
睡眠時間を削ってまで塾に行く必要があるのだろうか?
時代が進むにつれて、明らかに社会からの要求が過酷になってきている。
僕が小学生や中学生だったころ(15年くらい前)に比べて、明らかに生徒への要求が多くなっている。その要求に応えるために、生徒はあまりにも過酷な状況に投げ込まれている。
教師も同様だ。多くの要求が社会から突き付けられている。
小学校では、担任がすべての教科を教えるのが一般的だが、それが見直されているという。一人の担任ですべての教科を教えるのが困難になりつつあるからだ。
それは教師の教える能力が落ちたからではなく、教えるべき教科が増えすぎたために担任一人の手に負えなくなったからだ。
中学校や高校のように、教科担任制に変わろうとしている。
教師という職業はかつては憧れの職業だったが、今では平均倍率1.2倍まで落ちている。試験を受ければ誰でも通るくらいになってしまっている。
しかし教師が憧れの職業であることは変わっていないと思う。
ここまで倍率が落ちてしまったのは、教師という職業があまりに過酷だからだ。社会からの要求があまりに多すぎて負担が重すぎるために、忌避すべき職業になってしまっている。
資本主義社会に合致した教育ではあるけれど・・・
とはいえ、今の教育がこんなふうになるのはある意味当然だといえる。
資本主義社会は、1%の資本家(支配する者)と99%の労働者(支配される者)を必要とする。
学校は社会への人材の供給という役目も負っているので、高校入試や大学入試をとおして、将来の資本家と労働者を選別している。
もちろんこんな不平等はなくなるべきなんだけど、経済成長によって社会が豊かになっているころは、その不平等が覆い隠されみんな納得していた。
でも、もうそういう時代ではない。
格差はどんどん広がり不安や不満が渦巻いている。
それでも資本主義社会は学校への要求をやめることはないし、その要求はどんどん過酷になっていく。
かつての資本家はせいぜい学歴さえあれば良かったけど、今はそうではない。
学歴はもちろん、コミュニケーション能力やプログラミング能力、英語力、そしてAIを操る能力が今の資本家に必要とされている。
となれば当然、学校はそういう能力を持った人材をつくらなければならなくなる。
だからこれだけ生徒や教師をとりまく環境が過酷になるのだ。
あらゆる能力を備えたスーパー人材をつくるために、教育への負担が年々増している。
当たり前だけど、こんな人材は千人か一万人に一人くらいしか生まれない。いや、もっと少ないかもしれない。
かつてのもう少し緩やかな社会では、1人の資本家が99人の労働者を支配した。
今の過酷な資本主義社会では、1人のスーパー資本家が999人の労働者を支配する。
おそらくあと何年後かには、1人のウルトラ資本家が9999人の労働者を支配しているだろう。
今後も教育への負担は重くなり続ける。
資本主義社会が学校に人材を求め続ける限りは。
でも教育界の現状を見ていれば、もうパンクしそうになっていることは明白の事実だ。
スーパー人材を生み出す教育のために、多くの生徒と教師が疲弊している。
根本的に教育のありかたを変えなければならない。
社会の多様性を守る教育にシフトすべき
現在の教育は、一人のスーパー人材を生み出すための教育になっている。
資本主義社会の求める教育としてはこれで正解なんだけど、この教育のせいで多くの生徒と教師が疲れきっている。これではみんな不幸だ。
冒頭でも述べたように、社会の多様性を守る教育にシフトすべきだと思う。
一人一人にあらゆる能力を身につけさせる教育を行って、入試で能力の身につかなかった子どもを振り落としていくやり方は限界に来ているし、誰も幸せにならない。
だから、一人がスーパーになる教育ではなく、社会がスーパーになる教育を行うのだ。社会がスーパーになるとは、一人一人が持っている能力を掛け合わせた結果スーパーになるという意味だ。
具体的な提言としては、いろいろな教育を行う学校をつくること。
教育と一口に言っても、いろいろな教育がある。
公立学校のように手とり足とり教える教育もあれば、昔の職人の世界のように「見て学べ」という教育もある。自分の追求したいことをサポートしてくれる教育もある。
学校と一口に言っても、フリースクールやサドベリースクール、シュタイナー学校、最近テレビで話題になったN高校などさまざまな特色を持った学校がある。
こうしたさまざまな教育を行う学校が全国各地にあれば、子どもたち一人一人に合った学校が見つかるだろう。自分に合わない学校に我慢して通うよりも、いろいろな選択肢のなかから自分に合いそうな教育を行う学校を選んで通ったほうがよっぽどいい。
さまざまな教育を行う学校がある社会のほうが、多様な能力と特色を持った人材で構成される。こういう社会のほうが魅力的だし、生きていて楽しいと思う。
だから政府は今の教育のありかたを見直すべきだ。
学校にさまざまな要求を投げかけて生徒と教師を疲弊させるのではなく、全国各地にいろいろな教育を行う学校をつくるべきだ。
というか、民間レベルでいろいろな教育を行う人たちがすでにたくさんいるのだから、そうした人たちをもっと支援すべきだ。
今の公教育システムは明らかに限界に来ているのだから、その現実を受け止めるべきだと思う。
まとめ
金八先生の、人は人と人が互いに助け合うからこそ人なんだという言葉じゃないけれど、社会や国家ってのはもともと自分にない能力を互いに補い合って成立するものだったと思う。
でも今の社会は明らかにそうではなく、一人が多数を支配する仕組みになっている。この傾向はどんどん強まっていて一人がさらに多くの人を支配するようになっている。
学校もこの傾向を受け継いでいて、一人のスーパー人材を生み出すための教育を行っている。しかし、生徒や教師はこの教育のせいで疲弊しきっている。教育の現場における過酷な現状を見れば、今の教育システムは遠からず破綻するだろう。
だからこそ、様々な教育を行う学校をつくり、多様な能力や特性を持った人材を生み出すべきだ。一人一人はスーパーではないけれど、互いの能力をかけ合わせればスーパーになる。そうした社会のほうが、少なくとも今の社会よりも住みやすいだろうし、幸せな人も多くなるだろう。
僕は、教育に正解はないと考えている。
そうであるならば、一つの解答(学校)よりも多くの解答(学校)を用意しておいたほうがいい。
そのほうが個人にとっても、社会にとっても幸せだと思う。