毎年この時期になると、各週刊誌はこぞって、どこの高校から東大や京大といった難関大学に何人の合格者が出たか記事にする。
僕はついつい、自分の出身高校から難関大学にどれくらい受かったのかとか、出身大学にはどこの高校からたくさん合格者が出ているのか気にして記事に目をとおしてしまう。
でもその一方で、どこの高校からどこの大学に何人合格者が出たかをランキングすることに一体どれほどの意味があるのだろうと思ってしまう。こういうのを見るたびに、いつまでこんな無意味なことをするんだろうと考える。
これは自分が、学校は工場と同じだと考えているからだろう。このことについて今日は書いてみる。
1 学校は工場である
工場では、ベルトコンベアに流れている部品を労働者が組み立てて製品をつくっていく。流れてくる部品に欠陥があれば、見つけ次第取り除く。製品は最終的に優良とか不良とかランクづけされ出荷される。
学校もちょうど工場と同じように子どもを育てる。
ぼくたちは6歳になれば小学校に入学し、高校までなら12年、大学までなら16年ベルトコンベアの上を流れ続ける。
中学から高校にあがる段階で、高校入試によって優秀な子は優秀な学校へ、普通の子は普通の学校へ、不良はそれ以下の学校へ振り分けられる。
高校から大学に上がる段階で、大学入試によってさらに優秀な子とそれ以外の子が選 別される。
大学から社会に出る段階でもう一度、就職試験によって優秀な人材とそうでない人材を選別し、そしてぼくたちは社会に出荷される。
社会学者の山田昌弘さんは、このベルトコンベアのことをパイプラインシステムと呼んでいる。パイプラインシステムでは、何年かごとに入試というかたちで選別作業をし、優秀な製品とそうでない不良を「テスト」し選り分けていく。
やっていることは工場とまったく同じなのだ。
教師は、パイプラインシステムを流れてくる子どもに知識を注入していく。知識がちゃんと注入されテストで良い点数を示した子どもは優秀な子どもということで、「優等生」として「いい学校」へ送られる。逆に、知識が定着していない「不良品」は偏差値の低い学校に行くか、就職することになる。
子どもたちも無意識のうちに、テストの点数が、自らの品質証明書であることを理解している。テストの点数が高ければ優秀な商品なのだ。
だからこそ、テストの点数が高い者は優等生として東大や京大といった難関大学に送り込まれるし、そうでない者は落とされる。
社会学者の二クラス・ルーマンによれば、テストは知識の定着を図る道具でもあると同時に、優秀な製品とそれ以外の製品を選別する道具になるという。この選別作業は国家から要請された義務であるとルーマンは言う。この理由は後述する。
優等生、不良、テスト、人材。
教育について語るとき当たり前のように使うこれらの言葉は、工場でも日常的に使う言葉だ。
不良がどうして不良なのかといえば、彼らがシステムの要求を無視するからである。教師の言うことに従順で、テストの点が高い優秀生は、システムが求める規格に合致しているから優秀である。それに対して、システムの求める規格に合致しない者は不良なのだ。しかし人間として不良なのかいえば決してそんなことはない。
今ではどこでもかしこでも「人材、人材」と言われるが、人材という言葉からしてすでに人間が製品として扱われている証拠ではないか。また、「人的資本」という言葉もそうだ。マルティン・ハイデガーは、テクノロジーは人間さえも自らの発展に用立てると述べるが、まさにそうなっている。
大学は本来学問をする場であるが、大学自らが「人材育成」と謳いはじめているから「就職予備校」と揶揄されるのはしかたがない。大学に批判的機能はもうないのだ。
2 資本主義が近代学校をつくった
イギリスで産業革命が起こり近代資本主義が確立されていったわけだが、それと同時に学校制度も整えられていった。
近代学校と資本主義は関係が深い。資本主義が近代学校をつくったのだから。
資本主義が確立されることで資本家が台頭し、社会は少数の資本家と多数の労働者に分かれた。そして、資本家が労働者を支配し、搾取するようになった。
どのようにして、国家は資本家と労働者に選り分けるのか?
そう、学校が選り分けるのだ。
国家は子どもを一定の年齢に達したら、学校に入学させる。あとはパイプラインシステムによって、少数の優等生と多数の不良に選別していくのだ。
子どもたちはテストを通して、自分の品質がどれくらいなのか把握している。たとえ資本家になってお金持ちになりたい、エリートになりたいと思っても、テストの点が悪くていい学校に入れなかったらあきらめる。テストにはこのようなあきらめさせる機能がある。
何回もの選別試験で合格を言い渡された優秀な人材は資本家に、そうでない者は資本家に搾取される労働者になる。
実に合理的なシステムだ。
テストで優秀な成績を収めればいい学校に行けるので、すべての者に機会は与えられている。
資本主義以前の社会はそうではなかった。生まれながらにして身分が決まっていた。どこの家に生まれたかで一生が決まっていたのだ。
資本主義は自由で平等な社会をつくった。頑張って優秀な人材になれば上の階級に行けるから。
資本主義は社会の分業化をおしすすめた。
たとえば江戸時代は百姓がほとんどだった。百姓は、百の生業を持っているから百姓であって、彼らは米もつくれば、家も自分らで建てていた。
しかし資本主義社会が確立されると百姓は消えた。米を作るのは農家の仕事になり、家を建てるのは大工の仕事になった。
資本主義社会はそれ以前とは比べものにならないくらいの職業を生みだした。
こうなるとみんなが一つの職業につくと不都合が生じる。
国民全員がケーキ屋さんになりたいなんて言いだしたら、社会が維持されなくなるからだ。
だから国家は、各職業に定員を設け、そこにうまい具合に分配していかなければならない。
学校はこの分配の仕事も果たしている。
医者になりたければ医学部に行かなければならないし、教師になりたければ教育学部に行く必要がある。
誰もが給料が高い医者になりたいと思っても、医学部には定員があるのでその関門をくぐらなければならない。不合格なら医者にはなれない。
「俺は医学部に落ちたが医者になる。だから勝手に病院を開くぞ」なんて言ったって逮捕されるのがオチである。
テストは、国家の要請する分配機能をちゃんと果たしている。
以上をふまえて、資本主義国家における学校の役割は、
1 国民を1%の資本家と99%の労働者に選別する
2 多様化した職業に人材を適正に分配する
という二つがある。
3 国家は個人の幸福については考えない
最近、生徒の自殺や不登校、いじめが大きな問題となっている。
しかし、国家は個人のことについては考えない。
国家が考えるのは何よりも国家の維持であって、個人の幸福なんてどうでもいいのだ。
大事なのは、学校が上の二つの役割を果たすことであって、どこどこの学校の生徒が自殺しようが不登校になろうがそんなことは知ったこっちゃないと考えている。
だからこそ、学校や教育委員会はそんな問題は隠蔽してしまおう企んでいる。
大人にとっては、生徒一人が自殺することより、その事実が広まって学校のイメージが悪くなるほうが問題なのだ。
まったく、ひどい組織である。
国家も学校も組織の維持を優先するので、子ども一人一人が幸せかどうかなんてのは気にもしていない。
大事なのは、テストで優秀な成績を収めること、いい学校、いい大学に行ってもらうことなのだ。
4 必ずしも学校に行く必要はない
誰もがみんな幸せになりたいと思っている。
しかし国家や学校にとって個人の幸福よりも組織の維持のほうが大事なので、個人の幸福なんてどうでもいいと考えている。
その証拠に、政治家も教師もテストの点数にしか興味がないし、自殺やいじめの問題を隠蔽しようとする。
だから僕は、学校に行きたくないと思っている子や行く必要がないと考えている子は行かなくてもいいと思う。
勉強はどうするのと訊く人がいるなら、子どもは自分が学びたいことなら一生懸命になるものだと答える。
「勉強」と「学習」はべつものだ。
アリストテレスは「人間は生まれながらに知ることを欲する」と言った。
勉強はやらされるものだが、学習はすすんでやるものだ。
学校の勉強を放棄しても、人間はちゃんと自分の学びたいことを学習する。特に子どもの場合は。
幸い以前と違って、学校に絶対に行かなきゃならないという考えは薄まってきている。
子どもたちには、学校がおしつけてくるものではなくて、自分の学びたいものを学習していってほしい。