教育と道楽

 

 道楽っていう言葉は、ネガティブな意味で使われるけど、この言葉は見直されるべきだと思う。

 

 道を楽しむと書いて道楽と読む。

 

 剣道は剣の道と書き、弓道は弓の道と書く。この言葉から分かるように、日本人は「道=修行」ととらえていて、修行とは辛いものであって楽しいものではないから、道楽という言葉にはあまりいいメージがもたれないのかもしれない。

 

 でも、「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、好きなことは楽しんでやれるし、楽しいからこそもっと練習しようと思えるから、結局のところ、上達しようと思ったら苦しみながら練習するよりも楽しみながら練習したほうがいいのだ。

 

 メジャーの大谷とか、ヤクルトの奥川やロッテの佐々木朗希が試合を終えて「楽しかった」と言うと、OBたちが「試合は楽しんでやるものではない」とコメントしているがアホじゃねえかと思う。楽しいにこしたことはないし、それで結果が出てるんだからいちいち文句を言うな。

 

 こういうのって教育に大きな原因があって、勉強や部活がそのもっともたるものだ。

 本来的に学ぶことは楽しいはずだし、部活も自分が好きな活動をしているはずなのに、勉強や練習が修行になっているから、学びも部活も苦しいものでしかなくなる。

 

 勉強していると「努力しているね」と言われるが、これもおかしな話だ。

 「努力」という言葉に、苦しいものを耐えるというイメージが付きまとっているから、こういう反応になる。学ぶことが楽しい者にとっては、ただ好きなことをやっているだけだから努力しているという感覚がない。

  

 たぶん大谷には努力しているという感覚がないと思う。練習も試合も、ただ彼は好きなことをやっているという感覚しかないはずだ。将棋の藤井くんもそうだと思う。だから将棋の合間に何をしているのか聞かれて将棋をやっていると答える。彼にとって将棋は苦しいものではなく楽しいものだからずっとやれるのだ。

 

 日本人、とくに上の世代の人間にとっては勉強も仕事も全部修行だから、大谷や藤井など若い世代の「楽しい」という感覚が理解できないのだと思う。かわいそうだ。

 

 修行的価値観は苦しいものであるからこそ、結局他者を否定するようになるのだ。

 上の世代の人間、特にジジイは本当に他者を否定してばかりだが、これも自分が努力して上に行くよりも他者を否定して蹴落とすことによって自分のほうが上のように見せかけるほうがラクだから否定ばかりしているのだ。哀れだと思わないか。

 

 結局なにがいいたいのかというと、大谷や藤井を見たら分かるように、道を極めようと思ったら苦しんでやるよりも楽しんでやるほうが極められるのだから、「道楽」という言葉はポジティブな意味で使われるべきだし、勉強や部活においても子どもたちに修行させるのではなく、もっと楽しんでやらせるようにしたほうがいいという話でした。