生産性のある趣味とは?

 父の趣味はパチンコである。母はそれを嫌っている。

 

 父は最近コロナのせいで会社を解雇されたにもかかわらず、相変わらずパチンコに通い散財している。毎週だか、毎月だか、1000円もするパチンコ雑誌を購入し、研究?しているにもかかわらずパチンコ業界に搾取されている。母によれば、父の預金通帳はマイナス残高になっているらしい。パチンコでサラ金数百万の借金もし母に家を追い出された経験があるにもかかわらず、「好きだから」パチンコ通いをやめられない。もはや依存症である。

 

 

 生産性のある趣味にしたらいいのに。そんなことをふと思う。

 しかし、はて?、疑問に思う。

 生産性のある趣味とは?

 

 

 よく雑誌やネット記事で、女の子にもてる趣味特集とか受けのいい趣味とは?みたいなのが組まれているが、こういった記事タイトルを見るたびに愚問だと思う。

 趣味って、自分が好きだからそれが趣味になるのに、女の子にもてるから料理を趣味にするっておかしくないですか?いや、べつに出発点が「女の子にもてるため」でもいいのよ、それが高じて料理が楽しくなって趣味になるってのはgood。でも、べつに楽しくもないし好きでもないしなんなら面倒だけど、ただひたすら女の子にもてたいから料理!みたいなのは趣味とはいえないのではないだろうか?

 

 生産性(せいさんせい、Productivity)とは、経済学で生産活動に対する生産要素(労働資本など)の寄与度、あるいは、資源から付加価値を産み出す際の効率の程度のことを指す。(wikipedia より)

 

 生産性とはつまり、稼げるの?効率がいいの?って話なんだが、趣味に生産性を求めるのはおかしいと思うんですよ。

 

 趣味ってのは基本的に余暇にやるもので、仕事じゃないから趣味なんだけど、それが仕事のための趣味だったとしたら、なんか気持ち悪いと思ってしまう。

 おそらくエリートサラリーマンって趣味さえも仕事のためと思っていて、平凡なサラリーマンなら余暇の時間に酒飲んでテレビ見て屁こいてだらだら過ごしているのに対して、エリートサラリーマンは仕事のために筋トレやランニング、読書といった趣味に励んでいる。そういうエリートサラリーマンはいきいきはつらつとしていて、まわりからの人望も厚く、当然仕事でも結果を残す。

 

 でもねぇ、僕はこういうエリートサラリーマンは気持ち悪いなぁと思いますね。こんなのは資本主義の奴隷ですからね。仕事でも搾取され、趣味でも搾取されてるじゃないですか。平凡なサラリーマンは少なくとも酒飲んでテレビ見て屁こいてる時間は搾取されてないぜ。一方、仕事のために筋トレやランニング、読書しているエリートサラリーマンは余暇の時間さえも搾取されているのだ!

 いや、もっとも、筋トレやランニング、読書を楽しんでやっているのなら、それは純粋な趣味でもあるから、表面上はそれが純粋な趣味なのか、それとも仕事のための趣味なのか判別できない。

 さらにいえば、平凡なサラリーマンだって、酒飲んでテレビ見て屁こいてる時間が仕事のため(!?)ならば、やはり平凡なサラリーマンだって余暇の時間をも搾取されているといえる。

 話は混迷するばかりである。

 

 

 なにはともあれ、生産性と趣味は本来相容れないはずなのである。

 趣味ってのは、好きだから趣味になるのであって、稼げるからとか、仕事につながるからとかいうのであれば、それは趣味ではなく、仕事か、あるいは仕事のための仕事なのである。

 

 

 自分はとにかく、趣味の世界に仕事が侵入してくる事態は避けたいのである。

 なぜなら、好きだったものが好きでなくなってしまうからである。

 

 自分はたしか、走ることが好きだったから陸上を始めたはずなのに、それがいつのまにか、勝つためにとかタイムを縮めるために陸上をしているようになってしまった。これは非常にまずい事態である。

 勝つために、タイムを縮めるために陸上をする。そのために辛い練習に耐え続ける。勝っているあいだ、タイムが縮まっているあいだはいいのだ。勝つことは楽しいし、タイムが縮まっていくのは嬉しい。だが、勝ちがあれば負けがあるし、いつかはタイムの更新もできなくなる。そうすると、走ることが嫌になる。

 小学生のあいだは走ることが楽しかったから走っていた。中学生のときもまだ楽しかった。でもこれは勝てるしタイムがどんどん縮まっていったからだ。高校生のときはもう、ただ苦しいだけだった。高校生で燃え尽きてしまい、それ以降はもう走っていない。

 走ることが好き、ならずっと走り続けられる。でも、勝ちたいからとかタイムを伸ばしたいからという生産性が侵入してきて、好きだからという動機にとって代わられると、いつか走りたくなくなるときが訪れる。それは悲しいことだ。

 小学生の男の子がよく将来の夢はプロ野球選手になることだと言っている。でもいざプロ野球選手になった人たちは「しんどい、苦しい」と言っている。それは野球をやる理由に生産性が侵入したからだ。それは当然のことで、彼らにとって野球は趣味ではなく、仕事だからだ。

 

 もう一つ。

 人はみな、子どものあいだ、自分が生きるこの世界に好奇心を持ち、この世界を知ろうとしている。学ぼうとしている。しかし、大人になるにつれ、世界に関心を失い学ぼうとしなくなる。

 その理由について、大人になるにしたがって世界をどんどん知り、分かっていることばかりになるからだというのが一般的な説明だ。

 しかしこの説明は間違っている。なぜなら、逆説的だが、世界は知れば知るほど、分からないことが増えていくからである。宇宙について知れば知るほど、分からないことが増えていくと科学者が言うように、知識がつけばつくほど「自分は何も知らないということ」に気付くのである。井の中の蛙が大海を知るのと同じである。

 

 ではなぜ、ほとんどの大人がこの世界に対する関心を失っているのか?

 それは先ほどと同様に、生産性が侵入してくるからである。

 子どもはみなこの世界に関心を持ち知ろうとしている。だから大人を質問攻めにする。しかし学校に通い、知識を植え付けられ、テストによって優劣を決められることにより、知りたいから学ぶという好奇心は、テストでいい点を取りたいから、いい大学に入りたいから学ぶという生産性にとってかわられる。

 そうなると当然、順位が下の子はつまらないし、「自分は頭が悪い」と思うようになる。で、中学で成績が上位だった子でも進学校に進めば、下位になる子がいる。進学校で上位だった子が東大に進んでも、今度は東大で下位になる人もいる。天下の東大でも、その東大の中で上には上がいるので、「自分はダメだ」と思っている東大生もいる。

 これは実に不幸なことだ。この世界は奇妙奇天烈で知ろうとするにふさわしい世界であるのに。本来、学ぶという行為、知るという行為に順位など必要ないではないか。生産性という邪悪な動機が好奇心をねじふせてしまったばっかりに、ほとんどすべての大人の学ぶ意欲は燃え尽きてしまった。学校の罪は極めて重い。

 

 こういった理由により、趣味に生産性が侵入してくるのは避けたいのである。避けたい、いや避けなければいけない。しかし資本主義はいやおうなしに、生活に、人生に、生産性の論理を持ちこんでくる。

 資本主義はすでに、お金がなければ生きていけないシステムを構築してしまったから、我々はお金なしに生きていけない。だから、どんなかたちであれ仕事はしなければならない。そうすると、必然的に生産性が絡んでくる。恐ろしいねぇ。

 

 ということで、僕は父親の哀れな趣味を無下に否定できないのである。