百姓論②

仕事まで時間があるので最近読んだ本をまとめておく。

 

「これからどう生きるのか」ということを経済的に考えている。

まず、瀧本哲史の本を2冊読んだ。

彼の主張はこんな感じ。

 

 現在の資本主義経済はグローバル化していて過酷な競争状態になっている。

 そんな過酷な経済状況をサバイブするには、「コモディティ」にならないことだ。

 コモディティというのは日用品という意味で、ここでの文脈はありふれた人間というような意味。他と代替可能な人物だと、替えがきくので安い賃金で働かされる羽目になる。企業からしてみれば、同じ能力を持った人間ならば、安い賃金で働いてくれる人間を採用するからだ。そうすると、いつまでも奴隷のように、安い賃金で働き続けなければならない。

 そうならないために、他の人たちが持っていない能力を持った価値のある希少な人材になる必要がある。そういうことはみんな理解しているから、たとえばtoeicで900点をとるとか、MBAを取得するとか努力している。

 しかし現在のグローバル化した経済状況では、toeicで900点とったとか、MBAを取得したというレベルではコモディティであってそんなものはほとんど価値にならない。

 じゃあ結局どうしたらいいのかという話だが、もっとも重要なことは「教養」を身につけることだ。教養を身につけることで、物事を多角的に観ることができるようになる。そうすると、自分が今置かれている状況を俯瞰できるようになり、今何をすべきかが分かるのだ。

 

 

次に、牧野篤の本。

彼は資本主義社会を分析したうえで、その社会に生きる一般の若者の考え方や生き方について言及。そして、自分の教え子である名古屋大学の卒業生が実践している生き方を紹介している。

 

その生き方というのは、「農的な生活」。

農的な生活というのは、郊外で農業をはじめとしたさまざまななりわいをこなしながら、都会的な文化を享受した生活を送ること。

彼が名古屋大学で教えていた若者は、豊田市という郊外で農業を軸にさまざまな小商いを組み合わせて生活している。年収は200万くらいだが十分生きていける。農業で自分の食料は手に入るし、近所のじいちゃん・ばあちゃんもいろいろ助けてくれる。

暮らしにかかる費用が少ないから、年収が少なくても貯金がたまっていく。

 

 

瀧本哲史も、牧野篤も、いずれもまずこの社会の現状について書いている。

誰もが分かっているように、社会の現状は厳しい。しかも、そこにコロナ禍である。社会はより生きづらくなっている。いずれの人物も、これまでと同様の働き方・生き方はもう通用しないと述べている。

そうしたなかでどういう生き方をしていけばいいかとなったときに、両者はまったく異なった生き方を提示している。

 

瀧本は、厳しいこの資本主義社会で誰も持っていない能力を身につけ抜きんでた人材になれと言う。一方で牧野は、農業をしたり、あるいは地域の人と助け合ったりして「農的な生活」を送るのもいいじゃないかと提案する。

 

個人的には、僕は牧野側の生活を実践しようとしている。

というより、そちらの生き方しかできない。瀧本の主張のようになれる人材ってのは、スーパーエリートくらいだろう。現在の社会では、東大に入れたくらいでは人と差がつかないと瀧本は言うが、その東大に入ることさえできない人間がほとんどなのだ。だから、瀧本のいう主張は、ほとんどすべての人には実践できない。まぁ、瀧本が語り掛けている対象は、東大生や京大生といった上位の大学生、あるいはそれに近い能力を持った子たちばかりなんだけど。

 

ということで、これからどう生きていけばいいかってなったときに、牧野の提案は一つの選択肢として受け入れられる。

 

牧野はこのように述べている。

私たちが生きてきた、会社勤めを基本とする、いわば一億総サラリーマン社会は、私たちの言葉で「単能工」の社会です。誰もが、同じような一面的な能力を求められ、その能力を一つの基準で評価されて、序列化され、誰もが同じような働き方をして、同じような生活を送ることがよいことだとされた社会です。この社会では、会社で働く力だけが重視されます。

しかし、これからの社会は、「多能工」の社会です。一つの能力だけではなくて、自分が持っているあれやこれやの能力を総動員して、自分の仕事をやり遂げる、そうすることで自分がしっかりとこの世界に場所を占めて生きているということが実感できる、そういう社会です。P6

 

 「多能工」という言葉は見慣れないが、それは別の言葉で表せばありふれた言葉になる。多能工とはつまり、「百姓」のことである。

 百姓は農家のことではない、百のなりわいを持つから百姓なのである。昔の人たちは米を作るのみならず、さまざまな仕事を複合的にやっていた。なんでもこなしていた。だから百姓なのである。ほんの数十年前までほとんどの人がいくつものなりわいをかけもちし、複合的に収入を得ていた。会社に通ってそこから収入を得、そのお金でいろんなモノやサービスを買うようになったのはつい最近の話なのである。

 

 コロナ禍で大企業でも急に人を削減し始めた。

 このような状況のなかで、一つの場所から収入を得て暮らしていくというのはとてもリスクがあると思う。だから、戦略としては、百姓を目指すべきなのだ。

 

 それに百姓というのはいくつもの仕事を掛け持ちすることではない。

 たとえ収入が発生しなくとも、なりわいにはなる。近所の家の草むしりをしてあげたら、野菜やお菓子をくれた。これも一つのなりわいである。

 家の窓からすきま風が入ってくるので、コーキング材を買ってきて自分で修理した。これも一つのなりわいである。

 資本主義社会の性質上、収入の多寡ですべてが決まってしまうように思えるが、生き方の戦略としては、収入だけではなくて支出とセットで考えるべきである。

 どうして豊田市で暮らしている若者が、嫁も子どももいるのに年収200万で貯金ができるのかといえば、なんでもじぶんたちでやってしまうので支出が少ないからだ。だから年収200万でも十分やっていける。

 このような生き方はもちろん田舎のほうが実践しやすいが、都会でもできる。ベランダに鉢を置いて野菜を育てればそれは立派な家庭菜園であり、そのぶん支出が減る。工夫次第でいくらでも百姓への道は開かれる。

 

 生きていくうえで、仕事はしなくてもある程度どうにかなるが、生活はしなくてはならない。飯は食わないといけないし、洗濯はしないといけない。

 そうした生活を考えた場合に、考えるべきは収入と支出の差だ。たとえ収入が少なくとも、支出がさらに少なければ貯金ができる。逆に、どれだけ収入が多くとも支出がそれを上回れば借金しないといけない。

 何でも自分でやれるようになれば、支出がそのぶん減っていく。システムに頼れば楽で便利だがそれだけ金がいる。逆に自分でこなしてしまえば面倒だが金は浮く。自分でやれることが増えていけば収入が少なくとも生活できるようになる。もちろん自分でやっていることが仕事に転化して収入につながることもある。

 

 昔の人が百姓だったのはシステムが整っていなかったからだ。不便だったから自分でいろいろとやらざるをえなかった。現在は逆に、あまりにも便利になりすぎて金さえあれば何もしなくても生活がまわるようになった。

 しかし、このような先行きの見えない社会になった今、収入を増やそうと努力するよりも、支出を抑えるために自分でいろいろなことができるようになる努力をしたほうがいいのではないか。瀧本がいうには、東大に入れるレベルの努力をしたって人とは差がつかず奴隷のように働かされるのだ。それなら、家庭菜園で野菜を自分で作って支出を抑える努力をしたほうがはるかに楽だ。

 なんでもかんでもシステムに頼るのではなく、必要なことだけシステムを利用する。あとは自分で何とかする。そうしたシステムからの自立が必要な時代に入っているのではないか。今の時代において目指すべきなのは、われわれのじいちゃん・ばあちゃん、つまりはなんでも自分でこなす百姓なのである。温故知新。

 

 ヘッジファンドは、リスクを分散させるため、たくさんの企業に投資する。どこかで損してもべつのところで得すればいいのだ。一つのところにしか投資せず、もしそれが失敗したら大損害になる。現代人の生き方は、ちょうど一つのところに投資しているようなものだ。もしその投資先がつぶれたら途端に生活がたちゆかなくなる。だからこそ、百姓を目指してリスクを分散させるべきなのだ。

 

 

瀧本哲史の本

 

 

 

 

牧野篤の本

 

農的な生活がおもしろい ―年収200万円で豊かに暮らす!

農的な生活がおもしろい ―年収200万円で豊かに暮らす!

  • 作者:牧野 篤
  • 発売日: 2014/10/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)