百姓論

 昨日散歩している途中にふと「お金っていうのはそんなに信用してはいけないのではないか」と思った。

 

 そんなことをふと思ったのは、Facebookが仮想通貨「リブラ」を発行すると言っていたからだ。

リブラについてはこちらで詳しく解説されています。

dappsmarket.net

 

 Facebookがリブラを発行すると言ったことで、世界各国が警戒しているという記事を以前読んだ。Facebookがリブラを発行すれば、世界の通貨の価値が脅かされるからだ。

 

 僕は金融に詳しくないので、何がどうなって通貨が危ないということはよく分からない。リブラが実際に発行されるか分からないし、実際にリブラが発行されても国が規制をかければ大丈夫かもしれない。

 

 そんなことより、数千年の歴史がある国家が、たった10年かそこらくらいの歴史しかない企業のアイデアにおびえているということが僕にとっては衝撃だった。

 びっくりじゃないですか?国家は今までにいろいろな危機を抱え、ソ連みたいに崩壊するところもあったけど、Facebookみたいなひとつの企業のアイデアで多くの国家が危機感を抱くってことは初めてのことではないだろうか。国家が脆弱になったのか、それとも企業が強くなりすぎたのか。

 もうちょっと考えてみると、今はSNSで一瞬にして世界とつながれる時代だから、個人が強力なアイデアをぶちあげて世界中のユーザーが賛同すれば、国家もやべぇと思う可能性がある。

 

 そんなことを考えていると、これからの先行きの見えない未来と相まって、今は突然降ってわいたようなアイデアや事業が国家を脅かすのが時代なんだなぁと思い至った。で、最初に書いたように「お金ってそんなに信用していいものなのかな」と思った。最近どっかの国でハイパーインフレが起こって紙幣が紙切れになったが、今ではどこの国もそういうことが起きうる。

 

 以上の思考をふまえて、個人はどうすればいいのかと考えたのだが、お金への依存度を下げればいいんじゃないかと思った。

 現在の社会システムはお金がないと生きていけない仕組みになっているから、どうやってもお金は稼がないといけない。でも、お金への依存度を下げることはできる。

 

 そこで思いだしたのが、百姓だった。

 百姓といったら今は農家のことだと思われがちだけど、そうじゃない。百姓は、百の生業をもっているから百姓なのだ。かつての百姓は米をつくる以外にも、自分らで家を建てたり、織物をしていたりしていた。

 

 かつての百姓は今ではいないけど、内山節さんの本を読んでいると村にはその名残があることが分かる。

 

 

 

「里」という思想 (新潮選書)

「里」という思想 (新潮選書)

 

 

 内山さんが通う群馬県上野村の村民は、お金に困ると味噌だけ持って山にこもったらしい。山で木を切って小屋をつくり、家の者が出稼ぎにいっているあいだ山で自給自足していた。

 

 資本主義はいつのまにか人々の生業を細分化して、ぼくたちは一つのことしかできなくなった。一つのことをしてお金を儲けて、それによってモノやサービスを購入する。

 今まではそれで良かったのかもしれないが、お金の価値が簡単に揺らぐ可能性のある時代ではリスクが高い。

 

 自分の手でできることを増やして、お金への依存度を下げていく。

 百姓という概念は、今の時代だからこそ活きてくるんじゃないか。