コンポストトイレを使い始めてから起こった意識の変化について

 

 畑の脇に間伐材と廃材を使ったコンポストトイレDIYした。

 

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コンポストトイレがあるところには1週間に2~3回くらいしか行っておらず、普段はべつのところで暮らしている。ここに来た時に便意を催したらコンポストトイレを利用している。

 

すでに何回も利用しているのだが、コンポストトイレを使いはじめてから意識に変化が起こった。

 

うんちがもったいないと思い始めたのだ!

 

コンポストトイレを利用していると、まるで貯金箱に500円玉を入れているような気分になるんだよ。家や街中の水洗トイレを使っていると、まるでドブに500円玉を捨てているような気分になるんだよ。

 

これはあくまでたとえ話にすぎないと思うかもしれないが、あながちたとえ話でもない。

 

というのも、江戸時代はうんちがお金になっていたのだから。

郊外の百姓は江戸までうんちを取りに行っていた。長屋の大家はうんちと引き換えに銭や米などをもらっていた。百姓はうんちを肥料として使っていたのである。

たった数十年前まで田舎の畑の脇には肥溜めがあって、それを畑に肥料として撒いていた。うちのじいちゃんも肥溜めのうんちを畑に撒いていたのだから、ほんとについ最近まで、うんちを肥料として利用するのは当たり前だったのである。

 

逆に、現代社会ではお金を払ってうんちを処理する。

現代社会では下水処理システムが街を覆っていて、われわれのうんちはそのシステムによって処理される。うんちはトイレで流された瞬間、行方不明になる。99.9パーセントの人間は、自分のうんちが下水道に流れたあとの運命を知らないだろう。自分も知らない。どこにうんちを処理する工場があるか知らないし、どのようなプロセスを経て、うんちが何に変化していくのか知らない。なんにせよ、われわれは税金を使ってうんちを処理しているのだ。かつてお金になったうんちは、今ではお金を払って処理されるものになった。

 

このように考えると、先に述べた自分のたとえ話はまったくたとえではないと気づく。

 

恐ろしいのは、いくら自分がコンポストトイレでうんちしようとも、自分は見ず知らずの他人のうんちを処理するための税金を払い続けなければならないことだ。じつにおかしな話だ。世の中はこうしたふざけたシステムに満ち溢れている。

 

 

システムというのは本当に不気味で、普通に生きているとそのシステムに支配されていることに気付けなくなる。われわれはあまりにもシステムに順応してしまっているので、システムがわれわれにもたらす負の側面に気付けなくなる。

駅や電車でほとんどすべての人がスマホに目を落としている光景は不気味だが、その不気味さにスマホを見ている人たちは気づかない。

 

 

こんなことを考えていると、バンプオブチキンの『ギルド』にあるように、われわれは気が狂うほどまともな日常を生きていることを深く実感したのであった。