実験里山をやりたい

今日車を運転していると、実験都市という言葉はきくけど、実験里山という言葉はきかないなと思った。里山でもいろいろ実験はできそうだと思うけど。

今、家の裏手のほうにある山の一部を所有していて、その山には道がついているし、かつて家がたっていたこともあって平坦な箇所がいくつもあり井戸もある。しかも下手には川もあって取水できるうえに、竹藪や針葉樹、広葉樹もあるという最高の環境。

自分は今バンブーハウス建てたいなとおもっているからぜひともその山全体を手に入れたい。仲間はキャンプ場つくりたいといってるから、山はぜひとも欲しい。今はキャンプ場が流行ってるし、フォレンタという山の一部を貸し出すサービスもある。土地を借りて、そこでキャンプしたり、小屋を建てたりできるのだ。すばらしいサービスだよな。自分のところでこれやってもいいな。

www.forenta.net

 

自分らで山を管理して、一部を貸し出したりキャンプ場にしたりする。自分はサウナを作れるからサウナを作って付加価値を高める。サウナでは薪を使うから間伐材を薪として使うことで、山の荒廃を防ぐことができる。すばらしい事業だと思わないかい?

 

これと並行して、山に何らかの共同体を作ることができないかと考えている。お金以外の何かで結ばれた共同体、あるいは相互扶助システム。こういうのってヤマギシ会とかヒッピームーブメントの時代でもあったと思うが、結局その後どうなったのだろうか?あのときも、物質主義や戦争などへのアンチテーゼとして生まれたのだと思うが、いまではてんで聞かない。オウムや統一教会ヤマギシ会にしろ、何らかの思想のもとに集まる組織って必ず閉鎖的になる。閉鎖的になると、家と同じで空気が澱み朽ちる運命にあるようだ。これは映画『ザ・ビーチ』や『ヴィレッジ』でもそうだった。

 

 

奇妙なことに、みんな同じ思想や好みを持っていて不和など生まれないはずなのに、そういう同質的な集団って、必ず突然のアクシデントで崩壊に向かっていくんだよな。これは組織だけでなく、人間の肉体にも言えることで、病気になる人の腸にはほんの少しの種類の菌しかいないらしい。何にせよとにかく多様性が重要なのだ。

だから山で作る共同体は固定されたメンバーで構成されるのではなく、流動的で開放的でないといけない。でも、それって自分の気に入らないやつや合わないやつも受け入れないといけないし、仮に有名になればあることないこと書き立てるメディアが寄って来る可能性もあるわけで、それはそれで面倒だなと思う。あぁ難しい。

自分らは山主で、いわば土地を貸し出す大家だから、そこに集う人とはお金の関係で結ばれる。でもそれ以外の何かでもつながる共同体を構築するにはどうすればいいのかという問題。成田悠輔という最近よくメディアに出る人が、自分たちの理想とする社会を作るにはどこかの町をジャックしてしまえばいいみたいなことを言っていて面白いなと思った。今の政治は高齢者が牛耳っていて、その高齢者を選ぶのも高齢者だから若者はそう簡単に政治も社会も変えられない。だから、どこかの町なり市に若者がなだれこんで若者による政治を可能にしたらいいという主張。これならできないことはないよね。個人的には廃村なら少人数の仲間で実践できるんじゃないかと思う。廃村はかつてそこで生活が営まれていたわけで、生活システムは再建可能だし、そこにはもう誰もいないわけだから自分たちで自治もできる。山は村や町ではないから自治は難しいが、和歌山のニートが集まる共同体みたいなものはできそうである。あれも実験みたいなもんだよな、ニートが集まる共同体はどうなるのかという。

なんにせよ、今の社会はどうみても行き詰っているから、べつのシステムが必要だ。べつにそれは国家的な規模で運営されるシステムでなくてもかまわない。みかんは愛媛や和歌山で、梨は鳥取や千葉というように、それぞれの地域に合ったシステムがある。これと同じでいろいろなシステムで運営される共同体なり相互扶助ネットワークなりが実験でもなんでもいいから運営されていれば、もしかしたらそのシステムが日本を救うかもしれないのだ。ロシアが土地を適当に国民にばらまいたおかげで、それがダーチヤという文化を生み、ロシア人の生活を豊かにしている。さまざまな実験的試みを許してくれる余裕がこの国にまだ残っていれば、少しはましな未来が待っていると思う。