自分はスギナ茶を作って飲んでいる。
ついでに余分に作ってメルカリで売っている。出品すればわりとすぐに売れる。
出せば売れるからもっと作って売ればと言われるが、そんなことはしない。
家の敷地に生えてる分がなくなれば生産終了である。畑で作ってまでスギナ茶を生産することはない。
こういうことを言うと、「商売っ気がないねぇ」と返された。
そういうことを言われて、自分には商売っ気がないのかなぁと考えてみたんだが、いやそうではないぞと思ったのでここに記しておく次第である。
商売っ気が本当にないのであれば、自分はそもそもメルカリで売るなんてことはしていない。
自分には商売っ気があるのだ。ただ、ものの考え方と戦略が違うだけなのだ。
おそらく、「商売っ気がないねぇ」と言ってきた者たちは、売れるんだったら畑を借りて作ったり、あるいは家以外の場所からスギナを採ってきて、もっと生産して売ればいいのに、それをしないから商売っ気がないと判断したのだ。
仮に畑を借りてスギナをもっと大量に生産したとする。
そうすると、スギナの管理や茶葉の生産にもっと時間が割かれることになる。畑を借りてしまえば、それに付随して税金などもろもろかかってくるので、手持ちのお金も割かれることになる。つまり自分の人生が今以上にスギナに割かれることになる。
自分の敷地にあるスギナはべつにたくさんあるわけではなく、自分の生活で消費できる量である。ずっとスギナ茶を飲むわけではないからメルカリで売ったわけだが、もしメルカリで売れなかった場合、自分で飲めばいい。
この場合、リスクは全くゼロである。売れたら金が手に入るし、売れなければ自分や家族が飲めばいい。
一方、畑で大量に生産した場合、自分たちでは消費しきれないから必然的に売らなければならない。それで売れなければ赤字だし、その前段階でスギナがまったく育たない可能性もある。リスクだらけなのだ。
スギナに時間や金などのリソースを割いて、もしまったく売れなければ収入は0である。
一方で、スギナに割くリソースを自宅の敷地内の分だけにして、他のリソースを別の素材に回せば、収入源を多様化させることができる。そうすれば、スギナがまったく売れなくても、別の素材で収入が得られるので損失が限りなく0に抑えられる。
というか、先に書いたように、スギナが売れなかった場合は自分で飲めばいいだけの話なので売れなくても損失は0なのである。
戦略が違うとはこういうことなのだ。
スギナがメルカリで売れるからといって、スギナ農家になって大量に作って売ろうとすると、スギナが天候不良でできなかったり、需要がそこまで大きくなかったときに大損害を被ることになる。
一方で、スギナだけでなく他の素材も使って、小さな収入源を多様に確保しておけば、それもスギナのように生活に必要なものを生産して売るスタイルであれば、たとえ売れなかったとしてもリスクも損失も0なのである。
そしてこれは環境問題という観点からも重要な戦略だ。
自分がスギナ農家になって100のスギナを生産したとする。
100のうち70売れたとする。とすると、30のスギナがロスであり廃棄せざるを得ない。
100すべてが売れたとする。すると今度はすべて売れたのだからもっと生産しようと思うため、人手を増やしたり、栽培面積を増やしたり、いい機械を導入したりして、生産能力を上げるだろう。
これによって200生産できるようになったとする。このうち150売れれば今度は50のロスが生まれる。200売れたら今度は300まで生産能力を上げようとするだろう。以下同じである。280売れれば20のロスであり、300売れれば400まで増やそうとする。
これが資本主義なのである!資本主義というシステムは永遠にロスを産み続けるのである!そして、永遠にロスを産み続ける企業が、SDGsを推進しているのだ!
しかも企業がやっていることは基本的にギャンブルなのである。
正確な需要が分からないなかで、大量の商品を作っている。だから毎年恵方巻やクリスマスケーキを大量に作っては大量に廃棄し、年賀状を大量に刷って売れないから従業員に無理やり購入させるのだ。ばかげている。
敷地内で作るだけなら、自分で消費できるのでまったくロスが生まれない。環境問題的にも理にかなっている。
結局、欲望の問題なのだ。
もっともっとと思う欲望が、金に支配され、環境を破壊する要因になっている。
多くの企業やマスコミが、若者のさまざまな○○離れを指摘し消費が促されないと嘆いているが、企業やマスコミの愚かでバカげた嘆きなんて無視しておけばいいのだ。