責任を負うということ

サウナがとりあえず完成したので今日ヤフオクに出品した。今日出品したからというのもあるが、まったく反応がなくてショックである。近所の人はみんな見に来るし興味あるんだなぁと思うけど、ヤフオクではまだ反応がない。

技術はともかくアイデアには自信があるし、知り合いの一級建築士は、「送料無料で40万は安すぎる。100万はいくと思う」とお世辞抜きに言っていた。正直出品してすぐにたくさんの人が星マークするだろうと思っていただけにショックである。これに限らずだいたいいつも、高い期待を持っているとその期待は裏切られて、その落差の大きさ分だけショックを受ける。あれ一体何なんだろう。いつもそうなんだよな。

午前に出品して反応がまったくなく、うーん独創的過ぎるのかなと思って写真を撮りなおして、普通に見える角度から撮ったやつをメイン画像にして、いやいやそれじゃあこれを作った意味がないと思ってまた撮り直した。そしてうまく写真が撮れない自分にいらついた。今日は精神が不安定である。

 

このサウナは、アイデアから設計、建築まで全部自分一人でやった。すべての責任が自分にある。だからこそ、どういう反応を受けるのかな、誰か落札してくれるだろうかとワクワクと不安が入り交じって心臓がドキドキしている。こういう感覚は久しぶりで、あぁ生きてるなぁと感じる。そしてすべての表現者に敬意を払いたいと思う。

何かを表現したり、何かを製作、創造したりする、それをすべて自分の責任でやるというのは、とてもエネルギーがいることで、特に、芸術家のような、既存の価値観をぶち壊すような新しい価値を提供する人間は尊敬に値する。それを提供する前、自分の表現は人々にどう捉えられるのかと不安になる。もしかしたら全否定されるかもしれない。そういうのに立ち向かえる人間はすごい。ニーチェがワグナーのような芸術家を超人ととらえたのも、以前よりよく理解できる。ああいうのが、力なのだ。

自分は正直、草間彌生のかぼちゃとか奈良美智の女の子とか、なにがいいのか、なぜ評価されているのかさっぱり分からない。ああいう人たちはどのようなプロセスを経て評価されていったのだろう?たとえば無名時代に彼女らの作品がヤフオクに出品されたら誰か落札するのだろうか。

一方で、テレビでたまに見るいい年した芸人が、全くつまらない一発芸をやるのを見て、面白くはないが、あの年でつまらんことを恥ずかしげもなく披露できるメンタリティに尊敬の念を抱く。自分は本当に豆腐メンタルでちっぽけなことでウジウジ悩んでしまうから本当に尊敬する。

有名な芸術家にせよ、無名の芸人にせよ、何かを生み出し表現しているという点では同じで、今回自分もサウナを作ってみて分かったが、そういうことをできるというのはすごいことなのだ。それが評価とかお金に全く繋がらなかったとしても。

転売とか家にある不要品を売るとかみたいな自分とつながっていない行為ではなく、自分を賭けて何か生み出し世界に向かって表現する行為は、尊い。大げさにいえば、善く生きるとはそういうことなのかもしれない。と、書いていて小津安二郎の『生きる』を思い出した。あれも、仕事に惰性的な役場人間が、余命宣告されてから仕事に自分を賭けはじめた物語だった。

以前も軽トラキャビンを作って売ったが、あのときは今日のようなぞくぞく感はなかった。それは、初めて作ったし売れなくても仕方ないと言い訳して逃げられたからだと思う。でも今回は、売ると決めて作っているから言い訳できない。逃げられないからこそワクワクも不安も大きい。精神的にはしんどいからあまり味わいたくないけど、やっぱりこちらのほうが充実している。

誰かバズらせて高く落札されないかな~。