お金というものは本当に奇妙だ、思考さえも変えてしまう。

 

 お金というものは本当に奇妙だ、思考さえも変えてしまう。

 

 自分は気が向いた時にだけ働く自営業者だ。働いたり、働かなかったりする。

 今は毎日のように働いているんだが、働いているとき、思考がかわっていることに最近気づいた。

 

 働いていないときは、今日もバイオリンの練習しようとか、今日はあの本を読んでこの映画を観ようとか、余裕があった。お金のことなんかほとんど考えていなかった。べつにお金に余裕があるわけではないが、もともとお金をほとんど使わない人間なので出ていく金も少なく、したがってお金に対して不安を感じることもあまりなかった。

 

 今は違う。

 お金のことばかり考えている。奇妙なことに、働いている今の方がお金を稼げて余裕があるはずなのに、なぜか不安なのだ。矛盾している。金がない、もっと稼ぐにはどうしたらいいのか考えている。

 

 拝金主義という言葉があるように、お金というのは神のようなもので、宗教なのだということをつくづく感じる。まるで、沼だ。お金の沼にはまると、もうお金のことしか考えられなくなる。

 自分は働いたり働かなかったりで、沼から出たり入ったりだから思考の変化がよく分かるが、ほとんどすべての人は沼に入ったままだから思考の変化に気付くことはないかもしれない。

 

 沼に入ると、思考がまるでスポーツ選手みたいになる。

 100m走の選手がいたとして、この選手が現在11秒の自己ベストを持っているとすると、頑張って練習して10秒5で走りたいと思う。10秒5で走れるようになったとして、そこで満足して終わるかと言ったらそんなことは絶対にない。今度はもっと頑張って10秒3で走れるようになろうと思うはずだ。10秒3で走れるようになったら、今度は10秒2、そして10秒1を目指す。

 

 要するに終わりがないのだ。

 これはちょうど資本主義の仕組みと同じだ。

 資本主義の基本は、得られた利益の一部を再投資して、さらに利益を産むというものだ。開業したラーメン店が儲かって利益が出たら、従業員をさらに雇ったり、2号店をオープンさせる。そうやって投資して、さらに利益を得ようとする。2号店が儲かれば3号店、4号店とオープンさせる。そうやってどんどん儲けたいと思う。これも永遠に終わりがない。

 

 マックスウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最後のほうで、資本主義はいまやスポーツの様相を呈していると述べたのは、どこまでも満足することなく、ひたすらよい記録を目指すスポーツと構造が同じだからだ。

 

 これがお金の沼だ。今自分は沼のなかにいる。

 

 この前新聞を読んでいたら、南の島を以前旅していた青年の滞在記が掲載されていた。発展途上国なのだが、青年によれば、その島の人たちは儲けたお金はその日のうちに使ってしまうその日暮らしの人たちだった。だからといって、お金や将来に不安を感じるでもなくのんびりと暮らしていて、それが印象に残ったと記されていた。この感覚は、働いていないときの自分の感覚ととてもよく似ているんだよな。

 

 働いていないときの自分は南の島の人々と似たような感覚で生き、働いているときの自分は日本のほとんどすべての人が感じているお金や将来への不安を抱きながら生きている。不思議だ。お金を稼いでいるほどむしろお金への不安が増大していくのだから。

南の島の人たちは沼にはまっていないが、日本人ひいては先進国・資本主義国の人間は沼にはまっているからお金に対して不安を感じるのだろう。

 

 

 恐ろしいのは、じゃあ沼から出ようと思ったとしてもそう簡単には出られない構造になっていることだ。日本社会はすでに、お金がなければ生きていけないような構造になっている。

 かつてはそうではなかった。哲学者の内山節がさまざまな本で言及しているように、日本人はかつてお金がなくなったら味噌を持って山へあがり、そこで小屋を建て、山の恵みを食べて生活していたのだから。お金がなくても自活していける人がたくさんいたのだ。

 われわれはこれまでに工場から汚い煙や水を垂れ流して環境を汚染することで、自然環境を荒廃させてきた。そして、お金さえ出せば何もしなくても生きていけるシステム(それを豊かな社会だと勘違いして)にしたことによって、生きる力を自らの肉体から取り去っていった。そのようにして、お金がなくては生きていけない社会を自らの手で作っていったのだ。

 

 自分は今、沼に取り込まれている。

 沼から本当の意味で出られるのはどうしたらいいのか、自由になるにはどうしたらいいのか、難しい問題だが、考えなければ。