お金を稼ぐ能力がないなら、お金を使わない能力を身に着けたらいい。

 僕にはどうもお金を稼ぐ能力がない。

 いや、能力うんぬんの問題ではなく、お金に対する貪欲さがほとんどない。

 たしかにお金が欲しい。お金があるに越したことはない。それは分かっている。だけどそのために頑張って働こうという意欲が起きない。あぁ。

 

 なんでだろうな。お金がなければ生きていけないことは分かっている。だから、働かなければいけないことは分かっている。でも、毎日朝から晩までくたくたになって働くことに意味が見いだせない。

 

 働くとなっても、それが健康維持につながるとか、お金以外のインセンティブがないと身体が動いてくれない。困ったもんだ?

 

 たしかに、仕事にはお金以外の価値がある。仕事は社会貢献の一つなのだから。しかし、日本では仕事であまりにも自己犠牲を強いられるために、自分を犠牲にしてでも社会に奉仕する必要があるのかと思ってしまう。甘いですか?

 

 僕はお金を稼ぐことに関しては頭が働かなくなってしまうのだけど、お金を使わないという方向では頭の回転が早くなる。それに、コスパが悪くてもお金を使わないならやる気が出てくる。

 

 たとえば、この前ふんどしをつくったのだが、普通に考えれば買ったほうがはるかに安くつく。ふんどしをつくるのにかかった時間を考慮すれば、バイトのほうがはるかにコスパがいい。バイトしたお金でふんどしを買えばいいのだ。

 でも僕はふんどしをつくりたかったのだ。たとえコスパが悪いことが分かっていても。

 

 僕は、年収1000万の人よりも、ほとんど収入がないのにどうにか生きている人のほうがすごいと思ってしまう。

 なんでだろう。根本的にお金を信用していないからだろうか?

 

 僕は「百姓」になりたい。農家という意味の百姓ではなく、百の生業を持っているという意味の百姓に。

 

 渡辺京二さんの本に、江戸時代の百姓が登場する。

 

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

  

 だいぶ前に読んだ本なのでうろ覚えだけど、自分の家が火事で燃えているのに、百姓はにこにこと笑って、燃える家を眺めていたそうだ。

 

 これは僕の解釈だけど、どうしてにこにこと眺めていられたかというと、その百姓には家を建てる能力があったからだと思う。

 大工にお金を払って建ててもらうのではなく、自分の手で建てられる能力があるのなら、燃えたってまた自分の手で建てりゃいいんだという心持でいられる。お金を工面しないとという心配はいらない。

 

 現代人がお金に対してこれだけ不安を抱えている理由は、お金がなければ生きていけないからだろう。百姓のように、自分でなんでも工面できる力があればお金をそれほど必要としない。現代人は、百姓の対極の存在なのだ。

 

 自分にはこうした考えがあるから、お金を使わなくてもどうにかできる能力を僕は身に着けたいと思っている。お金を稼いで誰かにやってもらうよりも、コスパが悪くても自分でやりたい。

 

 個人的には、今後、お金を稼ぐ力よりも、お金を使わずに何でもできる力のほうが重要だと思っている。

 なぜなら、この先お金を稼げる人はAIを操れるほんの一握りの人だけになるだろうから。それより、自分でなんでもできる人間になるほうがよっぽど簡単だし、食いっぱぐれないと思う。

 

生き抜くのは、1つのプロフェッショナルではなく、100のアマチュアだと思う。