学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか

広田照幸『学校はなぜ退屈でなぜ大切なのか』を読む。

中高生あたりの若い読者や、教員など教育に携わる人を対象としているようだ。読みやすい一冊で、なるほどと思う箇所もあれば、うーむという箇所もあった。

学校はなぜ退屈なのか。これに関する話はなるほどと思った。学校ができる前の伝統的社会においては、基本的に農家の子は農家になり、鍛冶屋の子は鍛冶屋になる。親の背中にくっついて仕事を覚え、一人前になっていく。こういう社会では、生活と学習と仕事が一体化している。

ところが、近代資本主義が発達し、伝統的な社会が崩れてくると、子どもが親の仕事を継がないというパターンが生まれてくる。実際、現代では親の仕事を継いでいるという人のほうが少ないだろう。こうなると、子どもが将来どんな仕事につくか子どものときには分からないわけで、いろんなことを幅広く学んでおく必要が出てくる。だから、学校では基礎的教科を幅広く、すべての子どもに学ばせることになる。そうすると当然、算数には興味ないのに算数を学ばないといけなかったり、運動が嫌いなのに体育をしないといけなくなる。だから退屈なのだ。

本書では、目的と機能についても語られている。目的と機能で考えるというのは教育の話に限らず便利だなと感じた。広田は、テニスサークルの例をだして、テニスサークルというのはテニスをやるという目的のもと、テニスをやりたい人が集まっている。そこには、当然出会いの機会もあるわけで、テニスサークルにはもちろん恋愛をするという目的はないが、恋愛の場という機能も持ち合わせている。これが目的と機能の違いで、物事には少なからず、目的とはべつの機能が付随している。

コロナとかAIは、学校にも大きな影響をもたらしている。そんななか学校不要論を唱える人たちもいて、広田はそれに対して学校は必要だと説く。学校という知を教える場に、物理的な意味でみんなが集まり教育を受けることに意味があるのだ。だから学校は大切なのだと広田は言う。

学校は人格完成の場として、将来の社会を形成する人間を育成する。たしかに、学校はそうした目的を持つ場として機能している。しかし学校というシステムは、構造的に工場と同じであって、社畜という言葉にも現れているように、社会や会社の奴隷ともいうべき人材が育成される場としても機能している。そういう人間は果たして、人格の完成された人間であるといえるのだろうか。

とはいえ、退屈な場であらざるを得ない学校だからこそ、学校がある意味は大きい。学校とは、いうなれば新聞のようなものであって、新聞は自分の興味のない記事も自然と目に入ってくるという点で、興味のない教科も学ばないといけない学校と似ている。よくよく考えてみれば、興味があるとないのあいだにはグラデーションがあるというか、一概にあるなしで二分できるようなものではないし、今はなくても将来あるとかその逆ももちろんある。新聞記事を目にしていても、なんとなくの感じでいろいろ目を通して読んでいるし、不思議なんだが、朝気づかなかった面白い記事に夜気づいて読むこともある。学校もこれと同じなのだ。だから、学校に通わず自分の学びたいことだけ学べばいいというのは暴論で、ネットのエコーチェンバー効果みたいに、非常に偏った知識しか身につかず視野の狭い人間になるだろう。学校に通わないというのは自由なように見えて、その実不自由な人間になってしまうのだ。

それでも、学校というシステムに馴染めない子どもが一定数いるのは事実で、既存の公教育とはべつのシステムを持った公教育を並立させるほうが、多様性の時代に合った教育のありかただと思う。子どもにとって学校は生活の大半を占める場所なわけで、そこが自殺を選んでしまうほどあまりにストレスフルな場所であるなら、そこから逃げてもいいと教えなければならない。

やっぱり今の学校ってあまりに閉鎖的で狭くて忙しんだよな。教育学的にはその狭さが学習において大事らしいが、大学生になって自由な時間がたくさんできて旅をしたりすると、自分が高校卒業までにいた空間があまりに狭かったことに気づいた。世界は本当に広かったし、学校、特に高校で植え付けられた価値観とか考え方がいかに狭くてしょうもないものだったかに気づけた。

教育とか学校というのは考えれば考えるほど奥深いもので、いろんな批判や考え方があるべきで、逆に教育に対する考え方が社会に一つしかないというのは、ある意味教育の失敗である。なぜなら多様な考えのない社会は脆弱な社会であって、非常時に対応できないからである。ああでもないこうでもないといろんな考えや批判を表明できる社会のほうが健全で強靭である。

こういった一般層に向けた本は、教育学者である著者はあまり書いてこなかったらしいが、教育に限らず、学者は非専門家に対してもっと知見を紹介したほうがいいと思う。