過程と結果とキャンセルカルチャー

給食でうずらのたまごを食べた小学生がのどをつまらせて亡くなった。それに対して保護者は、予見できなかったのかと学校を批判している。

亡くなった事自体は悲しいことだが、それからのいろんなできごとや対応については、なんだかなぁと思う。自分の住む県の各自治体も、当面うずらのたまごをだすことを控えたり、通常どおり提供したりと、対応はさまざまだ。

事故が起きたという結果が起こるまでの過程で、誰一人たまごをのどにつまらせて亡くなった子はいなかったわけで、何も起こっていない段階でうずらのたまごを提供しないと決定するほうが逆におかしい。もちろん、遺族や同じ子をもつ親からしたらやりきれないから、批判したくなる気持ちも分かるが。

どういえばいいんだろうな、過程には無限の世界線があるが、結果というのはその世界線が一つに決定された状態で、その決定された結果から、過去の過程を批判するというのは、不公平というかフェアじゃないと感じる。結果の時点から見れば、過去から現在までは一本の線を辿ってきたように見えるが、現在の時点から見ればその先の未来には無限の世界線が拡がっているのだ。こういう思考が、数学者の対談本に載っていてなるほどと思ったから書いている。量子力学の二重スリット実験を想起したらわかりやすいと思う。スクリーンに粒子があたるまでは、粒子はあらゆる世界線を辿っているのだ。しかし、スクリーンに当たったら、そのうちの一つの世界が結果として存在している。

たとえば、これまでおそらく里芋やこんにゃく、ブロッコリーでのどをつまらせて亡くなった子はいないが、もしかしたら将来のどをつまらせて亡くなる子がいるかもしれない。あるいは牛乳や大豆のアレルギーで亡くなる子がいるかもしれない。こういう世界線は未来に向かって無限にある。うずらのたまごで亡くなる場合があるのなら、今言ったような可能性も十分ある。このような無限の世界線を考慮して予め対処しておくというのは、全知全能の神でもない限り不可能である。

それで今、世界中でキャンセルカルチャーがあって、日本でも東京オリンピックの開会式の音楽の担当だった小山田という人が、過去にいじめをしていたことが問題となって降板させられた。

たしかに、小山田のいじめは問題である。問題なんだけど、キャンセルカルチャーが一般的になってしまうと、みんながみんなの首をしめて自ら世界を息苦しくさせてしまうことになる。

たとえば、自分は今日常的に車に乗っている。今の価値観で、車に乗っていることを批判する人は誰もいないだろう。でも、将来車に乗っていることが悪だという価値観になり、それによってキャンセルカルチャーの的になる可能性は十分にある。車はもちろん大気汚染によって環境問題の原因になっているもので、将来の価値観が車に乗っていた者をキャンセルする可能性は十分に考えられる。

何をバカなと思うかもしれないけど、うずらのたまごだって事故が起こるまでは給食で提供されることが問題だと思われていなかったし、小山田のいじめだって小山田が子どものころは今ほどいじめがクローズアップされていなかっただろう。もしいじめが大きな問題だと認識されていたなら、雑誌で自分のしたいじめを得意気に語ってはいなかっただろう。

今問題視されていない行動や価値観が、将来問題視されキャンセルされる。それを予見して生きるというのは神でもない限り不可能であり、だからこそキャンセルカルチャーというのは問題なのである。たしかに、過去に起こした問題を不問にするというのは間違っているが、過去を掘り起こして表から消そうとするキャンセルカルチャーはすべての人間を生きづらくするだけで、自らの首を締めている。こういうカルチャーは早く衰退すべきだと思う。