リバタリアンが集まる町はユートピアになるのか実験した話

この前新聞の書評で面白そうな本を見つけたので早速読んでみた。

 

リバタリアン自由至上主義者と呼ばれ、なるべく公権力の介入をおさえて自由であることを望む人たちのことをさす。そういった人たちが集まる町はどうなるのか、その顛末を語ったのが本書。

 

リバタリアンの町

舞台はアメリカのニューハンプシャー州にある小さな町。この町にリバタリアンたちが全米各地から集まってフリータウンを建設しようとする。この町では熊がふつうに町をうろうろしている。本では、熊とリバタリアンの関係性を軸に話が展開される。普通、熊が町をうろついているところを住民が発見したら行政に通報して熊を駆除してもらう。熊が人を襲ったら大変だからである。しかしリバタリアンの町は違う。リバタリアンは公権力の介入を嫌がり税金を払うのをしぶるため、行政は熊の駆除に手が回らない、結果熊がのさばることになった。リバタリアンが町に集う前、熊は人が寝静まった夜に行動した。しかしリバタリアンが集まってから熊はもっと堂々と行動するようになった。そりゃそうだ、自分を殺すハンターがいないのだから。そして、この町には熊にドーナツなどをあげるリバタリアンもいた。人間の食べ物を食べるせいで熊は冬眠しなくなり細胞の老化がすすんだ。熊は人間の与える餌のせいで増えていき、熊に襲われる人が出てきた。役所が熊の頭数を管理するために指導してもリバタリアン聞く耳を持たない。こんな感じで町は対立が相次ぎ収拾がつかなくなっていった。

 

リバタリアンが集まる町はユートピアになるのか、答えは否であったようだ。

それに、この町は住民だけでなく、熊にも悪影響を与えている。ドーナツなど人間の食べ物を食べることで本来は冬眠する時期に冬眠しなくなり、細胞の老化も進んだのだから。熊は増えていき人間を襲う熊も出てきた。この町にはリバタリアン以外の人も住んでいて、そういう人たちから見ればリバタリアンはみんなを不幸にする悪魔に見えただろう。

 

囚人のジレンマ

この本を読んでいてルールの大切さを思い知った。世の中にはルールがある。ルールは人の動きを規制し縛る。リバタリアンだけでなく普通の人でも、動きを縛られるのは嫌だろう。しかし実は、人を縛るはずのルールがあることで、人は快適に過ごすことができるのである。この逆説を説明したのが「囚人のジレンマ」である。

『反逆の神話』という面白い本に「囚人のジレンマ」の話が載っている。

あなたは仲間とともに窃盗を犯し警察に連行された。しかしまだ窃盗については証拠不十分で有罪が確定していない。あなたと仲間は別々に尋問されて、警察は言う。

「お前は薬物もやっているな。薬物の罪でお前は1年ムショ暮らしになる。でも今回の窃盗の件で仲間に不利な証言をすれば、薬物所持の件でお前への告発を取り下げる」

警察はこの魅力的な申し出をあなたに伝えた。もちろんこの申し出は仲間にも伝えられる。このとき二人の証言の有無によって以下の4つのパターンがある。

1 あなたは証言し、仲間は証言しない(刑期:なし)

2 あなたは証言せず、仲間も証言しない(刑期:薬物所持のみの1年)

3 あなたは証言し、仲間も証言する(刑期:窃盗の罪のみ5年)

4 あなたは証言せず、仲間は証言する(刑期:薬物と窃盗で6年)

 

このパターンを見るとあなたは絶対に証言したほうがいい。自分の刑期を短くするためには証言すべきである。しかし当然仲間も同じことを考えているから仲間も証言し、二人そろって窃盗の罪で5年服役することになる可能性が高い。

しかし、ここに「仲間を売らない」という一つのルールを付け加えたらどうなるだろう。あなたも仲間も証言しない。つまり、2のパターンになり刑期は薬物所持のみの服役1年ですむ。ルールを守ることで、あなたも仲間も刑期が短くなるのである。

「仲間を売らない」というルールはあなたの証言の自由を縛るが、そのルールのおかげで、あなただけでなく仲間の刑期も短くて済み、晴れて自由の身となるのである。

 

なぜルールが必要なのか

なぜリバタリアンが集まる町がユートピアにならなかったのか。

リバタリアンは自分を縛るルールを嫌がり自由を希求する。ルールのない自由な社会で生活したい。しかし上の「囚人のジレンマ」の例で明らかになったように、ルールがあったほうがお互いに生きやすくなるのである。二人のリバタリアンの囚人がいたとして、「仲間を売らない」というルールの順守を守らなかった結果、刑期は5年になってしまった。ルールを守れば1年ですんだのに。

リバタリアンは熊にドーナツをあげる自由があって、熊もエサをもらって嬉しいし、それを見てドーナツをあげるおばちゃんも喜んでいる。しかしその結果、熊は生活が乱れ細胞が老化し、不当な数に増え、人間の土地に侵入しエサを奪ったり危害を加える熊も出始めた。結果的に人間も動物も不幸になった。

ヤクザの世界では「裏切り者は殺す」という恐ろしいルールがあるが、「囚人のジレンマ」を考えれば理にかなっている。このルールを徹底させることで、結局自分だけでなく仲間も組織全体も得をすることができるのだから。

最近、逮捕された人が「弁護士がくるまで話しません」と言っているのをよく聞く。この前の国税局の職員の逮捕のときも容疑者がそんなことを言っていたが、これももしかしたら、仲間内で「証言をしない」というルールが徹底されていたのかもしれない。証言しないというルールを守ることで結局自分も仲間も得するのだ。腹立たしい話だが、組織犯罪者は社会のルールではなく、組織のルールを守ることで不当に利益を得ている。

 

なのになぜ生きづらいのか

この社会はルールや法がどんどん作られているのに、なぜかどんどん生きづらくなっている気がする。それは一体なんでなのだろうな?

むかし大学の卒論発表のとき、自分は教育をテーマに話していて質疑応答で、教員から「子どもたちは学校に行くべきですか?」という質問を受けた。そのときはうまく答えられなかったが、後々この問いを反芻しているとき、この問いはそもそもがおかしいのではないかと思った。

「子ども」とは一体だれのことを指しているのか。一口に「子ども」といっても、学校に通うことが大好きな田中くんという子どももいれば、学校に行くと思うと頭が痛くなる木村さんという子どももいるのだ。「子ども」という一般名詞のなかには、いろいろ複雑な事情を抱えている子どもがいるのであって、それを十把一絡げにして「子どもは学校に通うべきなのか?」という問いをたてることはナンセンスに思える。

この社会のルールや法には、「子ども」という一般名詞は登場しても、田中くんや木村さんは登場しない。すべては一般化されているのである。一般化された人間に当てはめている以上、その一般から遠いところにいる者は生きづらいだろう。

学校という教育システムは個性を尊重するといいながら実際は画一化をおしすすめていて、でもそれはこの文脈からいけばある意味において子どもたちが生きやすくなるために行われている。個性をおしつぶし画一化をおしすすめていけば子どもはより一般化された「子ども」に近づいていく。そうすれば「子どもは学校に通うべきか?」という問いもナンセンスではなくなる。子どもはみな同じなのだから。

そうすると多様性のある社会というのは実は一般化された社会とは対極の社会ということになり非常に生きにくい社会だということになる。

とはいえ、究極に一般化された社会というのは無個性の一般化された人間で構成される社会で、それはつまりオルダス・ハクスレーの『素晴らしい新世界』みたいな社会だろう。私たちは学校という工場に押し込まれて無個性化・画一化されていくが、『素晴らしい新世界』ではそもそも最初から工場の試験官のなかで生まれ無個性である。

 

どういう社会がいいのか

われわれが完全に無個性で画一化されたロボットみたいになってしまえば、われわれはルールや法に記載された一般化された人間と同義になり非常に生きやすい社会になるだろう。しかしそうした社会はディストピアである。

これとは逆に多様性のある社会を目指すにおいて、そこに合う完璧な法やルールを制定するというのは非常に大変な作業になる。最近の例でいけば、同性愛者の結婚を憲法で認めないのは違憲だとして裁判が行われたが、「違憲ではない」と判決が出た。結婚とは男女間で行われるもので、国は男女が結婚し子を産み生活していくことを保護する。子どもを産むことは国家の維持につながるので、憲法によってこれを保障しようというのは道理にかなっていると思うが、子ども生み育てることができない同性愛者のカップルを憲法によって保障しないことが違憲なのかどうかは自分にはよく分からない。仮にこれが違憲だとして同性愛者の結婚を制度によって保障するとしたら、今度は初音ミクと結婚した男性は憲法によって保障すべきなのかとか、エッフェル塔と結婚した女性は保障すべきなのかとかどんどん議論が大変になっていく。

一般から遠い位置にある人たちを認めていくことが多様性のある社会だと思うが、それが法やルールと関わってくると途端に話がややこしくなる。しかし、われわれは一般化された社会よりも多様性のある社会のほうを好むのであって、であるならば個人的には社会を起業しやすくしてほしいなと思う。企業ではなくて、社会を。

村上龍の『希望の国エクソダス』という本はまさにそれを描いた物語で、政治家や国に愛想をつかした中学生が北海道に自分たちの独立政府をつくるという話である。

物語の中学生は、政治家があまりにもバカで時代遅れだから、対立して自分たちでどんどん物事を進めて行ってしまう。それは明らかに犯罪だろうということもやってしまう。ただ北海道につくった独立政府は非常にうまくいく。そんな話。

現実でも、会社だけではなく、社会をも起業できるようにしたらいいのにと思う。この国の政治家は多様性がまったく理解できないから、多様性のある社会の実現を政治家に期待するのは難しいだろう。ならばせめて社会を作りたいと思う人の支援をしてくれよ。

たとえば、リバタリアンが住むために制度が整えられた町とか、同性愛者が住むために制度が整えられた町とか。記事の最初に出てきたリバタリアンの町がどうしてユートピアにならなかったのかといえば、その町はもともとリバタリアンの町ではなかったのがあると思う。対立が起こる一つの要因はそこにあって、その町がリバタリアン仕様になりきっていなかったことがあるように感じた。また、東京のどこかの区が同性愛者のカップルを認めますよというのがニュースになっていたが、少なくともその区は他の自治体よりは同性愛者にとって生きやすい町になったわけで、こんな感じでリバタリアンに生きやすい自治体もあれば、同性愛者にとって生きやすい自治体、あるいはニートや引きこもりにとって生きやすい自治体というのを「起業」しやすくなれば、その自治体におけるルールの「一般」は住民と程遠いものではなくなる。業績の上がらない企業は淘汰されていくように、誰も住まない自治体は淘汰される。起業してダメだった自治体は誰も住まないというかたちで破綻するのだから、自治体の質が極度に悪くなることはないだろう。そう思うがどうなのだろう?