神奈川の障がい者施設で、職員が重度の知的障がい者を虐待していたのに施設は隠蔽し、管轄する県庁も放置していた問題。この施設には、自分の大便を天井に投げつける入所者がいて、この障がい者の暮らす部屋は天井が大便まみれでそれが放置されていたらしい。それを受けて、入所者は人間らしい生活ができていないと。記事では、こういった利用者は民間では受け入れられず、どうしても公立の施設に集められるという背景があり社会全体の問題だ、としている。
記事のいうとおりだと思うが、じゃあどうしたらいいの?ていうね。おそらく入所者は毎日毎日自分の大便を天井に投げつけているのだろう。もちろん入所者が自分で掃除するはずがないから、職員が掃除しないといけない。天井だけでなく、床もベッドもあちこちが便まみれだろう。その掃除に一体どれくらいの時間がかかる?コロナが蔓延した今となっては、掃除や洗濯に何時間もかかるだろう。この施設に入所者は90人いる、職員の数は書いてないが、おそらく多くはないだろう。現実的に考えて、毎日この入所者の部屋の掃除はできないはずだ。
記事でも、コメントでも、日本社会の問題だで締められている。もちろんそのとおりなんだが、で?ていうね。介護に関する専門家を置く、体制が十分なのか検証するべきと専門家はいうが、そもそもそういったことをする余裕が社会にないからこうなっていると思うのだが。
認知症の祖母の世話をしているとつくづく思うが、認知症になった人間は正直にいえばもはや人間ではない、いや動物以下だとすら思う。もし自分が有名人だったら確実に炎上するだろうが、世話する側の人間はだいたいそう感じていると思う。自分では何もできないし、判断することもできない、何十年も住んでいる家への帰り方も忘れてしまう、老いた動物でさえこんなことにはならないだろう、そんなレベルになったら敵に殺されてしまうのだから。人間の場合は、国家や社会といった強力な生存システムが構築されているから、脳みそがおかしくなっても生きていられるんだよな、これがいいことなのか悪いことなのか自分には判断できない。
知的障がい者がこちらに噛みついてきて、職員は落ち着かせる殴ったらそれが問題になる。たしかに問題なんだが、じゃあ一方的に噛みつかれてりゃいいのか?落ち着くまで?一体いつ落ち着くのか?殴って落ち着くなら殴らないといけないと思うのだが?
こういうのを問題視する人は、たぶん介護や世話をしたことがない人間か、あるいは偽善者だろう。この問題は解決のしようがない。むしろ受け入れてくれる施設が存在するだけでもありがたいと思わないといけない。
ヤフコメの専門家の意見で、「介護・支援は、支える側からの支配・管理でなく、被支援者の人権を尊重するものでなければならない」とある。それはたしかに正論だと思うが、これはまったく現実的ではない主張だと思う。
たとえば自閉症。われわれ健常者は、コミュニケーション能力が著しく欠如した状態、興味が限定的、行動が反復的な状態を自閉症と呼ぶ。こちらからの問いかけにまったく応答しない、自分の中に閉じこもっているから自閉症と呼ぶ。しかし、自閉症の東田直樹さんの本を読むと、それは違うと思う。彼によれば、自分たちが問いかけに反応できないのは、あらゆるものが話しかけてくるからだという。人間だけでなく、窓とか机とかあらゆるもの。われわれは、だれかが話しかけてくるとき、その人間に意識を向けることができるから、その人間の問いかけに応答することができる。しかし自閉症者の場合、その人間以外のさまざまなものが同時に問いかけてくることによって、その人間の問いかけに意識を向けることができず応答できない。つまり、自分の中に閉じこもっているのではなく、あらゆるものに対して開かれているがゆえに応答できない。われわれのそもそもの認識が違うのだ。障がい者の世界が健常者には理解できていないのに、彼らの立場に立っていろいろ支援できるのだろうか。
もうすこし踏み込んでこれを現象学的に解釈するならば、自閉症者はある意味においては障がいではない。現象学では、意識の志向性が問われる。認識されるものは、意識がそのものへ志向することではじめて認識される。見えることと見ることはべつものである。たとえば、時間を確認しようと時計を見たのに時間が把握できないことがある。時計は見えていたのに、時計を見ていなかったからである。時間を確認する刹那にべつのことを考えていたりするとこういうことがよく起こる。意識が考え事のほうへと向いていて、時計へと志向されていなかったからである。コミュニケーションの場合でも、誰かと話しているとき、「腹減ったなぁ」とか「今度の週末どこ行こう」とか考えていると、「ちょっとぉ、話聞いてるぅ???」と怒られることがある。意識がその人間の話に志向されていなかったからである。あるいは、車でドライブしているとき、外の景色に見とれていて話を聴いていないこともある。自閉症者の場合もこれと同じで、あらゆるものがといかけてくるがゆえに、意識を話しかけてくる人間に志向させることができないのである。健常者は、あらゆるものが話しかけてくるということがないから、自閉症者を「自分の中に閉じこもっている」と解釈し、「自閉症」と名づける。とはいえ、われわれだって意識を志向させる方向を間違えてしまうことはよくある。自閉症というのはある意味においては、われわれと同じなのである。ただ、日常生活を送る上で、あらゆるものが話しかけてきて意識を話す人間へ志向できないというのは障がいといえば障がいである。
それで何が言いたいかと言うと、われわれはそもそも障がい者の立場に立って物事を考えるのは無理なんじゃないかと思う。自閉症の例を見ても分かる通り、認識がまったく異なるのだ。自閉症に関しては、東田さんが文章をつづる能力があって、自閉症の自分には世界がどう見えるか表現できたから自閉症者の見える世界がわれわれにも理解でき、その人間の立場に立てたから分かったのである。
社会はどんどん合理的になっていて、間違いはすぐに炎上するようになっている。こういった虐待の問題にしろ、あるいは統一教会とか政治の問題にしろ、蓋されてきた臭いものが今どんどん取り払われてきていて、それはたしかにいいことだけど、同時にそれが当事者を苦しめている面もあると思う。今回76人もの職員の虐待が問題になって、これらの職員が解雇されるのかどうか分からないが、仮に解雇されたとして、じゃあその穴埋めをしてくれる職員が現れるのか?自分の大便を天井に投げつける強者たちが住む施設で働いてくれる職員がいるのか?この施設はつぶしたほうがいいと専門家や関係者は言うが、じゃあつぶしたところで誰がこの強者たちの面倒を看るのか。一番身近な家族でさえお手上げだから施設に入所しているというのに。臭いものに蓋をするのはよくないが、臭いものに蓋をしなければ社会全体が臭くなる。じゃあどうしたらいいのって話なんだが、答えは見つからない。