国家 罪 中動態

 

 100分で名著、吉本隆明の『共同幻想論』を観た。

 

 国家の成立には、人々が共同の幻想を抱くことが寄与している。

 共同の幻想というのは、つまるところ「罪の意識」である。

 罪は、日本神話のなかで描かれている。

 

 スサノオは父の命令に背いてアマテラスの統治する高天原で暴れまわる。

 それを悲しんだアマテラスは岩谷のなかに隠れてしまう。アマテラスがひきこもったせいで、天の秩序が乱れ大嵐が吹き荒れる。八百万の神々は思案し、アマテラスのこもる岩谷のまえで踊りアマテラスを外へ誘い出す。アマテラスが再び外に出たことで、天地の秩序はもどる。

 一方スサノオ八百万の神々によって爪をはがされ、根の国へと追放される。これが原罪である。

 

 大和朝廷はこの神話を使って原住民に罪の意識を背負わせ、土地を開拓させ農耕民族へと変えていった。大和朝廷はこの共同幻想によって支配関係を強固なものにしていったのである。

 

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 この件を観ているとき、どの神話にも共通して原罪が描かれていることに気付いた。

 

 旧約聖書では、蛇にそそのかされてアダムとイヴが知恵の実を食べたことが原罪として描かれている。その結果アダムとイヴは神によって楽園を追放され、額に汗して労働に勤しまなければならなくなる。

 

 ギリシア神話には、弟のエピメテウスが人間をつくる際に能力を分配し忘れたせいで、兄のプロメテウスが天上に行って火を盗んでくることが原罪として描かれている。そして、弟のエピメテウスは天上からやってきた美女パンドラを家に迎え入れ、その美女が持っていた箱を「開けてはならない」と言われていたのにも関わらず空けてしまったせいで、その箱から病気や老化といったあらゆる災厄が解き放たれる。これによって人間は生きているあいだに多くの苦しみを味わうことになった。

 

 それぞれの神話は、内容こそ違えど構造がまったく同じである。おそらく他の神話にも原罪が描かれているはずであるし、これを使って支配者は人々を統治したのだろう。

 

 で、罪に対応するのが罰なわけだが、近親相姦や獣姦などいった行為は「国つ罪」と言われ、このような罪を犯したものは共同体から追放された。

 そして、生きたまま動物の皮を剥いだり、田の畔を壊したり、埋めたりといった農耕に関する違反行為は「天つ罪」と呼ばれ、このような罪を犯した者は追放されるのではなく、罰を与えられた。

 

 国家が成立する過程で、国つ罪と天つ罪は混在している状態だったが、国家の規模が大きくなるにつれて、この二つはきっちり分けられ刑法が敷かれるようになる。そうして国家が確立するという次第である。

 

 罪の意識が刑法を生み国家が誕生するという流れである。

 

 罪を犯した者には罰が与えられる。

 ここで重要なことは、加害者と被害者が存在するということである。

 田んぼを壊したという罪には、壊した者と壊された者が存在するわけだ。

 

 言語形態は、国家の誕生を境に根本的に変わったはずである

 

 われわれが使っている言語は能動態と受動態という態を有しているが、古代ギリシアでは中動態という態が使われていた。

 

 中動態というのは状態や状況を示す態だ。出来事を描写する態で、行為した主体者は問題にならない。つまり、中動態が使われている世界では、罪を犯した者を罰することができない。

 

 だから国家が誕生する際、支配者が言語形態を中動態から能動態/受動態に変えたことは想像に難くない。そうしないと、罪を犯した者を罰することができないからだ。

 

 それに伴って、意志と責任という概念が誕生した。

 自らの意志に基づいて罪を犯した。だからその者には罰を受ける責任が生じる。

 

 罪を犯さないようにするためには、規律と倫理を個々人に教える必要がある。ここらへんから教育という概念も誕生したのだろう。

 

 古代ギリシアで中動態が一般的だったのは、人々が今の言葉でいう統合失調症患者だったからだ。人々は神々の言葉を聴き行為する。そこには意志というものは存在しない。現代の統合失調症患者が人を殺したとしても罪に問えないように、古代ギリシア人が人を殺したとしても罰されることはなかった。そもそも罪/罰という概念が存在しなかったからだ。

 

 国家というものが共同幻想によって支えられていることを考えると、われわれに巣食っているあらゆる概念・規範・理性・意識、こういったもろもろのものはすべてまやかしであることに気付く。

 

 われわれ「健常者」は、統合失調症患者をみて「障害者」だとみなすわけだが、それは間違っていて、統合失調症患者がむしろ「健常者」でわれわれが「障害者」なのだ。狂っているのは、統合失調症患者ではなくてわれわれであって、つまるところこの世界が狂っているのだ。われわれが生きているのは気が狂うほどまともな日常なのである。

 

 このような狂った世界から自由になるためにはどうしたらいいか、自分には分からん。世界は狂っているが、狂っていないように見えることをしても、刑務所に送られるか、精神病院に隔離されるかだ。子どもであれば、学校で「教育」される。

 

 まぁ、まずは生臭坊主が言うように、認識することが大事なのですといって締めようと思う。