歴史に関する考察

このまえ仲間といろいろ話をしてて、『進撃の巨人』から得た視点についての話題になった。仲間曰く、ナチってそんなに悪いものだったのか、もしかしたらそれは歴史を語る者がメディア戦略によってナチ=悪と印象付けたいのではないか、あるいは北朝鮮にしたってわれわれは北朝鮮に行ったこともないのに、メディアからの情報でしか北朝鮮のことを知らないのに悪い国だと思っている、本当にそうなのか?『進撃の巨人』のユミルの民はおそらくユダヤ人と解釈しても間違っていないはずで、ユダヤ人は金持ちが多いから実際世界で権力を握っている民族だろう、世界が悪い方向に向かっているのならそれを駆逐しようとしたヒトラーは一概に悪といえないのではないだろうかと仲間は言っていた。たしかにそのとおりだと思った。われわれは、ナチのことも、北朝鮮のことも、メディア(それは学校教育なども含めて)の与える情報からでしか知らない。そしてそれだけの情報で判断している。とすると、情報を与える側が印象操作するために与える情報を統制することによって、われわれの善悪の価値観も操作されていることになる。「種を制する者が世界を制する」という言葉があるが、今では「情報を制する者が世界を制す」ともいえるかもしれない。とはいえ、後々このことについて考えていると、それって全く当たり前のことだよなぁと思った。

個人にしろ、国家にしろ、あるいはその他もろもろあらゆることに関して、誰かが誰かに物語るとき必ず情報統制は行われる。なぜかといえば、そのものに関してのすべての情報を伝えることなど原理的に不可能だからだ。たとえば、私があなたに、田中という人間がどういう人なのか教えてあげるとする。田中という人間には無限の情報がある。いつどこで生まれたのか、どこの小学校に通い、どこの大学に受かり、どこで働いているか、今何をしているか、今誰と付き合っているかといった大きな情報もあれば、田中は昨日何時に起き、午前中何をして、昼はどの道を通っていつものジムに通い、終わったらどのバスに乗り温泉に行ったかみたいな小さな情報まで無限にあげられる。田中にはこういった無限のイヴェントが発生している。私はそこからいくつかの情報をピックアップしてあなたに伝える。つまり、情報統制が行われる。それは当たり前のことだ、田中が生まれた瞬間から現在までの無限の情報をあなたに伝えていたらどちらかの寿命が尽きてしまう。だから必然的に情報を、私があなたに伝えたい、伝えるべき、伝えなければならないものをピックアップしなければならない。このとき仮に私が田中のことが嫌いだとしたら、意図的に田中に関しての悪い情報をピックアップするだろう、彼はよく信号無視するとか、高校生のとき万引きして捕まったことがあるとか、そうすると、あなたは田中は悪い奴だと思うだろう。逆も然りだ、私が田中のことを好意的にとられているならいい情報をピックアップして伝える。もちろん人間は嘘をつく動物だから嘘の情報を混ぜることもある。で、これは田中という人間のみならず、すべての人間、そして国家の歴史など、あらゆるものに関して、誰かが誰かに物語る際、確実に情報統制が行われる。すでに述べたとおり、すべてを情報を伝えることは原理的に不可能だからだ。だから語る側の人間、あるいは国家は、自分たちの都合のいいように情報をピックアップして伝える。ナチにしても、北朝鮮にしても、それを語る側である国家は明らかにナチ=悪、北朝鮮=悪と印象付けたいからそういう情報をピックアップしている(もちろん、悪い情報しかないから悪い情報しかピックアップできないのだという説明もあるだろう、しかし完璧な悪というものがこの世界にあるのだろうか?)

歴史を意味するhistoryが物語という意味も持っているのはこのためだろう。われわれが知っている歴史というものはすべて物語なのだ。教科書に載っているものは物語ではなくて、事実だろうという反論があるかもしれないが、それは私の説明を理解していない。たとえ事実だけしか羅列されていなくても、それは物語なのだ。なぜならすべての事実を、これまでに起こって来たあらゆる事実を載せることは原理的に不可能であって、そこには国家にとって都合のいい事実しか羅列されていないからだ。それは必然的に物語になる。私があなたに田中について語る際、私は自分の都合で田中に関する情報をピックアップしてあなたに伝える。たとえそれがすべて事実であっても、それは田中のある一面でしかなくすべてではない、すべてを伝えることはできない。あなたは田中の一面しか知ることはできない。それは必然的に物語だ。だから、人にしろ、国家にしろ、あいつの言ってることは嘘だ、あいつは裏切り者だとか国の言ってることは嘘だという人間が現れる。それはたしかにそのとおりなのだ、物事の一面を語ることはできてもすべてを語ることはできない。でもそれは嘘というよりはむしろ、片手落ちなのだ。

芦田愛菜ちゃんが映画かなんかの舞台挨拶で、人を信じることについて話していたと思うが、誰かのそれまで見えていなかった側面が見えたとき裏切られたと思うのではなく、その人の知らなかった一面が見えたと思いたいみたいなこと言ってたはずだが、彼女、おそらく人生を何周かしてるんだろうな、とても17だか18の子が言えるような言葉じゃない。この態度は本当にすばらしいと思う。誰かや何かについて、それまで知らなかった一面が見えたとき、相手が裏切ったと思うのではなく、自分が見ていなかった一面を見たと思う。相手どうこうではなく、自分。

このように考えて見ると、『進撃の巨人 final season part2』のエンディングテーマ『悪魔の子』の歌詞をより深く味わえるようになった。


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正しさとは自分のこと強く信じることだ。