学校教育と民主主義のねじれた関係について

 

 

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ツーブロックはなぜダメなのか

 

 

 時代錯誤も甚だしいよね、これ。

 

 ツーブロックだと事故や事件、トラブルを起こす可能性があるから禁止という教育長のわけの分からない答弁。

 東京都の教育のトップが、こんな意味不明のことを論理的な答弁だと考えているのだとしたら、教育の失敗以外なにものでもない。こんなわけの分からないのことを考える人間が教育の長なんだから。

 

 しかしある意味では、日本の教育はかなり有効に機能しているともいえる。

 教育は人格の完成のためというのがその本来の目的だけど、それは建前で、本音はシステムに対する従順な奴隷の育成なのだ。

 もともと近代学校というのは、国家を維持する人材の育成のための機関としてつくられたわけだから、学校は上の指示に対して反発しない人間をつくらなければならないのである。上が「カラスは白」と言えばカラスは白なのである。ビッグブラザーみたいだ。

 

 今回、共産党の都議がこうした質疑を行って社会に対して問題提起したわけだけど、本当なら学校の生徒が問題提起しないといけないのだ。本当に健全な学校なら、学校がツーブロック禁止と言っても、生徒会が自らその校則を変えているはずだ。

 でも、生徒は心の中でおかしいとは思っても、校則を変えるというアクションは起こさない。そもそも変えるという発想がないし、そういうことができるということも知らないと思う。

 自分の学生時代を振り返ってみてもそうで、自分が学んでいる環境をよくしようと思う生徒は自分も含めてほとんどいなかった。だから校則を変えたいと思うことすらなかったし、今の環境がおかしいと思うことすらなかった。

 教育学の用語で、ヒドゥンカリキュラムという言葉がある。たとえば、時間割があることで生徒は自然に時間を守るようになるというような、そういう隠れた効果のあるカリキュラムのことなんだが、わけの分からない校則は生徒に「社会は結局変わらないんだ…」と無力感を植え付けるのだ。

 

 若者が選挙に行かないことが長らく問題になっているが、それは学校教育のせいで、生徒は「どうせ選挙に行ったってなにも変わらない」という無力感を小学校から高校卒業までにじわじわと浸透させられているからだ。

 というか、上の世代でも、「自分の一票で社会を変えられる」と思っている人なんかほとんどいないんじゃないか?「上司に行けと言われた」とか「知り合いにここに入れてと頼まれた」とか、「うちはJAに入ってるから自民党」とか、そういう奴隷的思考によって選挙に行っている人間が大半だろう。

 

 神戸で30年前に、遅刻ぎりぎりに校門に向かって走ってきた生徒が、教師が閉めた校門に挟まって圧死した事件があったが、そのころから学校教育は結局なにも変わっていないのだ。

 いや、社会が閉塞感に包まれて、コロナのせいでもう社会あるいは世界全体が絶望に向かっているような昨今における、「何をしたって無駄なのだ」という無力感は以前よりもさらに強まっている。

 

 

 このように考えてみると、学校教育と民主主義は、ある意味でとてもねじれた関係にあることが分かる。

 学校教育は社会システムに対して従順な奴隷の育成を行っていて、それが見事に成功している結果、ツーブロック禁止という意味不明な校則に反発しない生徒をつくりあげている。彼らは何を言ったって無駄、何をしたって無駄という無力感にうちひしがれている。

 この社会は民主主義で、選挙に行く人が多いほど民主主義が健全に機能している証拠となるのだが、この国の投票率は低い。そりゃ、自分の一票に価値がないと思っているのだから低いのは当然だ。

 

 

 つまり、学校教育か、民主主義かどちらかを変えないといけないのだ。でないと、永遠にねじれたままになる。