村上春樹と河合隼雄の組織に関する話

村上春樹全作品1990~2000 7を読み終わる。

 

『約束された場所で』には、村上春樹オウム真理教の元信者をインタビューしたものが載っている。そして、オウム真理教という組織に関しての村上春樹河合隼雄の対談も載っていて、組織というものに対する両者の考え方がとても腑に落ちた。オウム真理教という組織、ひいては組織そのものが孕む危険性、組織と現実との関係性について。

 

二人の話の強く印象に残ったところは、組織(あるいは個人もだと思うが)は悪を内包していなければならないのだということ。なぜかというと、現実は善も悪も内包しているからだ。わたしたちは現実を生きている。いいことも悪いことも経験する。矛盾した現実を生きている。矛盾しているがゆえにわたしたちは葛藤する。そして善を希求するし、現実の悪い部分に耐えがたくなっていく。多くの人はそこらへんをなぁなぁにして清濁併せ吞みながら生きている。しかし一部の純粋な人間はそういったことができない。そうした人たちの一部がオウム真理教に流れていった。そして事件を起こした。

 

村上は言う

僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって・・・というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいは内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が我々の世界に影を与え、深みを与えているわけです・・・(中略)・・・たとえば上祐という人がいますね。この人は非常に巧妙なレトリックを駆使して論陣を張るわけだけれど、彼が言っているのはひとつの限定された箱の中だけで通用する言葉であり理屈なんです。その先にまではまったく行かない。だから当然ながら人の心には届かない。でもそのぶん単純で、強固で、完結してるんです。P213

 

現実は箱が入れ子のようになっていて、限定された一つの箱のなかだけなら通用する論理や正義が別の箱だと通用しなくなる。これは『進撃の巨人』で見事に描かれているし、ウクライナとロシアの戦争を見ていてもよく分かる。われわれはウクライナの側に立っているからロシア側の論理は理解しづらいが、プーチンにはプーチンの論理があるのだろう。批判されている映画監督の河瀨直美はそこらへんが言いたかったのだと思う。とにかく、現実は入れ子になっていて、だからこそ矛盾している。そしてこの矛盾に耐えられない人がいる。耐えられないから矛盾のない世界に行きたいと思う。その一つがオウム真理教だったのだ。オウム真理教に限らずカルト宗教は、信者を外部からいっさい遮断する。オウム真理教という箱は現実から遮断され、信者はその箱のなかの純粋な世界を生きることになる。上祐のような頭のいい人間が、箱のなかだけで通用する論理を構築しているから、信者はその矛盾のない世界の居心地のいい「沼」に溺れていく。

 

河合は言う

だからね、それ自体はいい入れ物なんです。でもやはり、いい入れ物のままでは終わらないんです。あれだけ純粋な、極端な形をとった集団になりますと、問題は必ず起きてきます。あれだけ純粋なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなものすごい悪い奴がいないと、うまくバランスがとれません。そうなると、外にうって出ないことには、中でものすごい喧嘩が起こって、内側から組織が崩壊するかもしれない。P222

 

もしオウム真理教が何も事件を起こさずにいたならば、いい入れ物であり続けたのだと思う。しかし、この世界にいい入れ物など一つも存在しないことが示しているように、完全で純粋な善だけの組織は必ず平衡を失い、内部崩壊するか、もしくは外に悪を「偽造」して戦争を引き起こすのだ。

 

『欲望の資本主義 2』に哲学者シェリングの悪に関する洞察が載っている。

どんな組織もどんなシステムも時間を経て自身を維持するためには、他のシステムを排除しなければならない。シェリングによれば「善」とは、より大きなシステムを構築するために二つのシステム間でなされる対話です。しかし、そのシステムが一定のレベルに到達して排除できるものが何もなくなると、そのシステムは内部の何かを排除しなければならなくなります。そうしなければ自身を維持することができないからです。例えば、生命体というシステムを考えると、その維持のためには代謝によって、外部のエネルギーを取り入れて変換することがシステムの本質です。つまり、システムには外部が必要なのです。ですから、外部との境界がないシステムは、それを維持するには、内部に異質なものを作りださなければなりません。シェリングによれば、これが悪のダイナミクス(力学)です。P140

 

オウム真理教がヨーガの団体であったころはおそらくまともな善なる団体で、麻原もカリスマ的な力を持つ純粋な善人だったんだと思う。善き団体であるがゆえに、信者が増えていって組織が拡大しはじめると、外部との摩擦が生まれるようになる。それはつまり他のシステムとの衝突で、自己システムとの矛盾の露呈なわけだが、オウム真理教は対話を拒否し、信者に現実を見せないようにして自らの純粋性を維持しようとした。しかしそうすると今度は、内部に異質なものが生まれる。シェリングの哲学が正しいのなら、このようなプロセスを経てオウムの内部に悪が醸成されていったのだろう。

 

村上がオウム元信者へのインタビューを通して気づいたことは、元信者はオウム真理教が起こした事件については悪いことだと反省しているが、オウムの理念自体は間違っていないのだと信じていることだ。だから、「オウムに入信して後悔しているか」という質問に対して「無駄ではなかった」と答えている。オウムで得た純粋な価値は現実では得られないものだったからだ。だから村上は危惧している。オウム真理教という組織がなくなっても、「オウム的なもの」が再び現れるのではないかと。誰だったかは忘れたけど、オウムの死刑囚も村上と同じように「第二のオウム」は現れると言っていた。

社会から零れ落ちる人というのは必ずいて、その人たちの受け皿がないかぎりオウム的なものが生まれる土壌はなくならない。芸術や文学が本来そのサブシステムとして機能するが、それでもダメな人は生活保護補助金あげますから楽しくやってくださいというふうにしたらと河合は言う。ただ思ったのは芸術や文学や生活保護がきちんと機能するには社会に余裕がないといけないんだよな。コロナで分かったように、余裕がなくなると芸術などに予算をまわす余力が社会になくなってくるわけだから。ここらへんがかなり難しい話だと感じる。結局金の問題が重要になってくるわけだが、オウムに入信した人たちはそうした金金言ってる社会に虚無感を抱き嫌気がさしたはずだからだ。

 

今の若い世代ではオウムのことを知らない子が多く、オウムの後継団体に入信している子もけっこういるらしい。だけど、そういったことはほとんど表にあがってこない。コロナやウクライナの問題は、現実の生きづらさや矛盾を増幅させていて、純粋な若者はいっそうオウム的なるものを希求していると思う。オウム的なるものは苦しさを解放させてくれると信者は思うだろうが、それは現実から目を背けさせているだけにすぎない。そして、いったん帰依してしまうと、オウム的なものは再び社会に牙をむくだろう。それを防ぐために私たちは一体なにができるのだろう?自分のことで精いっぱいだというのに。分からない。分からないが考えなくてはいけない。