『コンビニ人間』という引き裂かれた自己を考察する

 芥川賞受賞作『コンビニ人間』を数年ぶりに再読。

 

すばらしい作品。

芥川賞受賞作のなかでも認知度や売り上げがトップクラスの作品だと思う。キャラクターも強烈だし、表現もすごい。読ませる。主な登場人物である古倉さんと白羽さんはヤバいやつなんだけど、言ってることに共感するところもけっこうある。

 

主人公の女性、古倉さんは18歳から36歳までの18年間、ずっとコンビニでアルバイトをしている。子どものときからずっとずれている。学校で同級生の男子二人がケンカをしているとき、同級生はケンカをやめさせるために先生を呼びにいったが、彼女はスコップで頭を殴ってケンカをやめさせた。先生を呼ぶより、スコップで殴ったほうが早くケンカをやめさせられるからである。彼女が大人になってからもそれは治っておらず、普通の人間である彼女の妹が、泣いている我が子をあやしているとき、主人公の姉はナイフを見つめながら「こっちのほうがもっと早く泣くのをやめさせられるのに」と思うのだった。

 

こういった件を読んでいると、普通の人間であるわれわれは「こいつはヤバい」と感じる。サイコパスだと感じる。と同時に、この世界にはあまりに暗黙のルールや決まり事が多くて、それを無視できる、無視してしまう人間が普通ではないのだと自分は思った。これは小説だが、現実にももちろんこういう人たちはいて、どっかの雑誌で読んだ画家か写真家の話していたことを思い出す。

 

姉とテレビを見ていたら、歌番組のトークの場面に堺正章が出てきて、テレビの中の観客も姉もゲラゲラ笑っている。姉が、これはマチャアキがサルに似てるから笑っているのよと説明してくれたんですが、この人がサルに似ているので笑ってもいいことと、それを並行世界のテレビの中の人も、お茶の間の姉も知っていることにびっくりしてしまって。小学2年生くらいでしたけど、これから生きていくのに、こういうお約束をいくつ覚えないといけないんだろうと途方に暮れた。そして諦めたんです。そういうお約束は覚えないことにしようと。

 

普通であるわれわれには当たり前のことが、この画家か写真家には当たり前のことではないのだ。小説の古倉さんもこうした暗黙のルール、お決まりがまったく分からないから「ケガをさせるからいけない」というルールを無視してスコップで殴る。しかしこういったいわばまったく当たり前のルールやお決まりってどうやって知るのだろうか?自分は教えてもらった記憶がないが、それでも分かっている。古倉さんやこの画家もおそらく普通の環境で育ってきたはずで、だからこそ、古倉さんの妹やこの画家の姉はまともなのだ。

 

こういう人たちはバカにされたり見下されがちで、古倉さんは同僚や同級生から奇異の目で見られている。古倉さんはそれをうっとおしいと思っている。同僚には業務内容以外の会話をしない店員でいてほしいと思っているし、同級生には「親の介護をしないといけないから正社員ではなくバイトなのだ」と妹に考えてもらった言い訳を言っている。

 

彼女は暗黙のお決まり事をまったく知らないから普通を目指している。必死に世界の部品になろうと努力している。しかしなかなか世界とかみ合わない。でもそれは「人間」の部分であって、「店員」という部分では完璧に世界の部品になっている。あまりにもかみ合っているから、自分の勤めていないコンビニで勝手に商品の陳列を変えたりしても店員に怪しまれないし、それどころか感謝される。

 

でも現実を見渡してみれば、成功者や歴史に名を残している人物ってだいたい古倉さん的な人間だと思う。スティーブジョブスなんて伝記を読めば相当狂った人物だったことが分かるし、親鸞なんて妻帯を禁じられた時代なのに妻帯して何人も子どもを産ませている。彼らもまた、「人間」の部分では世界とかみ合っていなかったが、「店員」的な意味では世界に発展をもたらしているのだ。

 

この本を初めて読んだのが2016年で、普通の人であるわれわれはどうにか個性を出そう、人と違っていることに価値があると思っているのに、この小説の主人公はもともと変わっていて人との違いに苦しんでいるから普通を目指しているというベクトルの違いが印象に残った。文化の多くは、われわれが企業や社会の歯車であることを批判し、普通であるわれわれもそれに強く共感するのに、古倉さんはむしろ歯車であることに喜びを感じるところが新鮮だった。しかし人は個性的でありたいと願いながら、同時に古倉さんのような個性的な人間に対してすごくいやらしくなるようだ。こういうのは出る杭を打って個性をつぶしてくる日本人に特有なのかな、それとも世界的にそうなんだろうか?あるいは資本主義の影響が大きいのだろうか?資本主義は人間に部品になれと迫ってきながら、同時に個性的であれと命令してくるから。

 

古倉さんと同じくらい強烈な登場人物である白羽さんもヤバい。

30代後半の独身男性で、古倉さんの家に寄生している無職。風呂で寝起きし、古倉さんから「餌」を与えられている。古倉さんと同じコンビニでちょっとだけ働くが、客の女性のストーカーをしたことが原因で解雇される。女性や社会を見下し恨んでいる。前に住んでいたところは家賃滞納で逃げ出し、弟の嫁に怒鳴られる。この国は縄文時代と変わらず、ムラから働け、結婚しろ、子どもを産めと脅迫される構造がずっと変わっていないと主張する。

 

白羽さんはヤバいが、言っていることはけっこう共感できる。たしかにこの国は、というかどこの国も、国を維持するために働け、結婚しろ、子どもを産めと言うから。「女性は子どもを産む機械」と主張する自民党の議員もいる。子どもを産みすぎたら、今度は1人しか産むなと強制する国もある。

 

つまり人々は、社会は、個人を引き裂こうとしているのだ。アンビバレントな要求を通して。この本は「普通とは何か」と問いかけるわけだが、本を読むといっそう「普通」が分からなくなる。答えがいっそう分からなくなるというのはいいことだ。答えなんてそもそもないのだから。浅はかな答えを退けられるから。芥川賞受賞も納得の作品である。