自己啓発と教養の違いについての私見

 

 今月号の中央公論の特集が、自己啓発と教養の深い溝についてだった。

 

 

 ぱらぱらと流し読みしながら、途中まで読んだ。

 

 自己を啓発することと教養を身に着けることって、確かによく似ている。

 誰もが人として成長したいと思っていて、それは自己を啓発することであるし、教養を身に着けることでもある。でも特集タイトルにあるように、自己啓発と教養はまったく違うものであると僕は思う。ではどう違うのか。

 

 自己啓発と教養って、本を比べるのが一番よく違いが分かると思う。

 自己啓発本を見ると、いかにして自己を改革しビジネスで成功をつかむかということを主題にして書かれている。自分は自己啓発本をほとんど読まないのでサンプルが少なすぎるのだが、そういうことに重きを置いているように感じる。自分の生活から無駄を排除し効率を追い求め成果を出す。目標を設定しその目標を達成するために今何をすべきか。そのための方法が自己啓発本に書かれている。

 

 教養本というと、自分は岩波文庫をイメージするのだが、あの類の本に書かれていることは、世界とは何なのか、人間とは何なのかといったような、根源・本質を追い求める人たちの思考や物語である。どうやったら成果を出せるのかとか、効率的になれるのかといったことは眼中にない。むしろなんというのかな、もがいている感じ。もがいてもがいて物事の真理に到達したいと願う人たちのあがき。

 

 自己啓発を志向する人間はスマートに、教養を身に着けたい人間は愚直になりたいんじゃないかな。ネガティブな表現を用いれば、自己啓発は軽く薄っぺらで、教養は重苦しい。

 

 

 この社会は資本主義社会である。

 これをベースに自己啓発と教養の違いを考えてみる。

 自己啓発は資本主義という枠にうまく順応することによって、そこから多くの利益を得ようとすることを目的とする。資本主義社会では、効率的に成果を出す者が成功者である。そのために、座禅をし、筋トレやランニングをし、読書をする。すべては成功するためである。

 

 教養は違うと思う。

 むしろそうした枠組みから自由になるためのものであると思う。資本主義という枠組みが定めた価値ではなく、自分でつくりあげた価値を生きる。それが自由というものである。教養というのはリベラルアーツのことであり、自由な人間になるために学ぶものだ。この世界を知り、枠から自由になるために教養を身に着けるのである。つまり、教養を学んだ人間に成功も失敗もない。自分自身の価値観で人生を生きるのだから。

 

 どちらに価値があり、どちらが勝ちというのはない。

 社会で成功したければ自己啓発本を読めばいいし、人生を善く生きたいのなら教養本を読めばいいのだ。