行方不明になれる空間をつくりたい

いろんな人のいろんなブログを読んでグッと来たらブックマークするんだが、はてなブログを使いこなせていないせいか、ブックマークしたものがどこにあるのか分からなくて結局読み直さないんだわ。だから記事にしておくことにする。

kasasora.hatenablog.com

 

タイトルがいいよな。泥団子をこねろってなんだよってなって読んでみようかと思わせる。読んでグッと来たからブックマークしたし、こうして記事にする。

この社会の生きづらさって何だろうと考えたときに、何でもかんでも意味化しようとするところだよなと思う。人生の余白がどんどん塗りつぶされていく息苦しさ。

余白を侵食するものは何かってなると、それはスマホであり、インターネットだ。

泥団子をこねる、自分を閉じる、自己を外部から遮断する。べつに泥団子でなくてもいい、アリの行列を朝から晩まで眺めるのだっていいし、小豆を屋根の上に延々と飛ばすのでもいい、とにかくその行為に意味が介在しないこと、これが大事なのだ。

そういうのって行方不明になれる時間と空間にいないとできないことで、泥団子をこねるという作業でも、それが明日のプレゼンのことを考えながらこねたり、そばに誰かがいてその人とおしゃべりしながらというのでは、ダメなのだ。自分自身に浸ることが重要で、プールとか海に浮かんではぁと上を眺めるあの一瞬のポケ―とした余白、あれがいい。あれがずっと続くのがいい。

現代社会にそんな余白が残されているのだろうか。近頃よく言われるサードプレイスというのが当てはまるのかは分からない。

山に秘密基地を作りたいというのもやっぱり、泥団子をこねる環境が欲しいと思うから。ソロキャンプが流行るのも、みんな行方不明になりたいのかな。

このまえ新聞記事の書評で『ファスト教養』が紹介されていた。読みたいなと思ったが、書店にも図書館にもなかった。書評によれば、昨今は教養ブームで、上司や取引先との会話をスムーズにするための手段として教養を身に着ける、そのために手っ取り早く映画を観たり、本を読んだりするのが流行っているらしい。なんだかなーという感じ。そういった自己啓発と、教養のあいだには大きな溝があると思うぞ。

ホリエモンとかオリエンタルラジオの中田とか、池上彰とかが教養ブームを作り出して、彼らが何を思って教養が重要だって言ってんのかは知らんが、結局教養が一つの記号として消費されているような感じがして嫌だ。

教養はリベラルアーツの訳語で、自由になるための知識が教養であるのに、教養を身に着けることが自己啓発の手段になって、それは一層資本主義システムの奴隷になってしまうことを考えれば、まるでそれはプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神みたいではないか。

そんなふうに考えると、泥団子をこねることと教養を身に着けることって同じだと思うわ。泥団子をこねてるあいだ、ボルタンスキーという人は自由だったはずだ。意味の網目からこぼれ落ち、自分の底へと向かって深く深くに降りていたはずだ。教養がある人というのは、意味の網目をかいくぐって自分の深くに沈んでいくことができる人だ。

たぶんだが、ハイデガーの『存在と時間』にある本来的な状態っていうのは、泥団子をこねてる時間だと思う。たぶんね。何でも意味化されることと、死がどんどん遠のいていっていることは相関関係がある、あるいは因果関係かもしれない。時代が進むにつれて、何でも意味化され、余白が少なくなり、人々は非本来的な状態へと頽落する。

とっちらかったが、以上のことを考えた。