ざらついたこみゅにけーしょん?

今一緒に働いているSさんについて。

かれこれ一ヶ月くらい一緒に働いているのだが、なんといったらいいのか、とにかくコミュニケーションがとりづらい。なぜなのかここ最近はよく考えている。

仲が悪いわけではなく、無視されるわけでもない。話しかければ、普通に会話できる。しかし向こうから話しかけてくることはない。最初はそうだったのだが、雇い主のOさんがおそらく彼に何か注意したのだろう、最近はSさんのほうからたまに話しかけてくるようになった。

仕事でしか会わないし、雑談もべつにしたいと思わないから、彼とは仕事に必要な最低限のやりとりだけでかまわないのだが、それがなんだかやりづらいんだよなぁ。他の現場で、もっと寡黙な職人的な人ともいっしょに仕事したが、その人とは仕事のやりづらさを感じなかった。Sさんには、コミュニケーションのアンバランスさを感じる。自分の家庭環境などについて事細かに話すのに、仕事に必要なことは何も話さない。雇い主のOさんから「コーキングのことについてSくんからききました?」と訊かれたから「いや何も聞いてないです」と答えたら、数日後にSさんが「すいません、高いところの外壁コーキングはできないので、かわりにやってもらえませんか?」と言ってきた。一度こちらに相談してくれればいいのに、なぜ話さないのかよく分からない。

彼からはあいさつの重要性も教えられた。朝現場に着いて彼に「おはようございます」とあいさつしても、こちらを見ずボソッと「あぁ…」としか言わない。そもそも年下の彼のほうからあいさつするのが普通だろう。試しにあいさつしなかったら、彼の方からあいさつすることはなかった。あいさつしないというのは、こんなに感じが悪いものなのか、自分は今まであいさつの力を軽視していたが、彼からはあいさつの重要性を教えられた。

彼の話によれば、彼の家庭環境はなかなか複雑だったようで、それが彼の人格や性格に何らかの悪影響を及ぼしたのかもしれない。軽々に判断するべきではないが、彼はもしかしたら発達障害で、コミュニケーションがとりづらいのはそのせいかもしれない。

自分に関しても、あいさつしなくて説教されたこともあるし、人との関係を突然切ったりもするから、コミュニケーション能力はないほうだと思う。自分がそうだから、なるべく相手の置かれた状況を理解したうえで接したいと思う。とはいえ、彼と今後いっしょに仕事をしたいかと言われれば、できないことはないが、あまりいっしょに仕事をしたくないというのが本音である。

 

今まで生きてきたなかでこういうタイプの人には初めて会ったな。なんだか感じの悪い人。いや、感じの悪い人はいくらでもいたが、なんだかよく分からないが感じの悪いというSさんのようなタイプの人は初めて会ったから、こうやっていろいろ考えてしまうのだ。コミュニケーションがまったくとれないわけではない、しかしざらつくのだ。ざらつくから、何だ、この感じは?と考える。

初めて一緒に仕事をして数日後、彼と雑談していて、「今住んでいる家では、向かいの家のおばさんが夜にライトをずっと家に当ててきて嫌がらせしてくるんですよ」と彼が話してて、「そんなことする人間がおるんか!?」と自分は衝撃を受けた。そのおばさんが悪いのは大前提として、彼の感じの悪さがそのおばさんにそうさせているんでは?と今では思ってしまう。

にしても彼からはいろいろと教わった。あいさつの重要性もだし、仕事においてもっとも重要なものは愛想の良さだな、そういうことも教えてくれた。技術があっても感じが悪い人だと、仕事をまかせようと思えなくなる。彼は職人タイプでもない。職人は愛想はないが、でもこの人ならちゃんと仕事をしてくれるだろう、そういう感覚を抱かせてくれる。でもSさんは職人とは違う。職人ほどの技術がないというのがあるんだが、それ以上にこの人になら仕事をまかせられる、そういう安心感がない。なんだか信頼できないから。

 

あと彼とのやりとりを通して、コミュニケーションそのものについて考えることができるのは良かった。なめらかなコミュニケーションはコミュニケーションそのものについて考える機会を与えないが、ざらついたコミュニケーションは「ん?」となるから考える契機になる。

大学の社会学の講義で、マックス・ウェーバーをやったのだが、たしか法律のことで、法律についてもっとも考えることができるのはそれについて違和感を感じている人間だと教授が紹介していたような覚えがある。たしかに、社会を変えるにしても、生きづらさをまったく感じない人間は社会を変える必要性をまったく感じないわけで、その一方で、たとえば、女性としての生きづらさを感じながら生きている女性はフェミニズム運動やMeToo運動に参加するだろう。

このように考えると、学問にしろ何かを創造したり発明したりするにしろ、既存の常識や枠組みに対する違和感、つまりざらつきを感じなければ思考は発動しないのだ。Sさんはコミュニケーションにおけるざらつきを自分に与えてくれたからこそ、自分はなんだこれは?と考え始めたのである。

こういうことについて述べた本で、一番近しいのは千葉雅也の『勉強の哲学』だと思う

うろ覚えだが、この本もコミュニケーションのざらつきを述べたものだったような気がする。勉強するのは他者とのあいだに摩擦を起こすためだ、まぁそんな感じの内容だったと思う。内容はほとんど忘れたが、哲学書にはないとても現代的な言葉で分かりやすく説明してあって面白かった記憶がある。

 

日本で生きやすさを追求すれば、なるべくざらつきを押さえて空気を乱さないようにすることだが、一方で自分を抑えなければいけないのでストレスがたまる。今までの日本社会はそうだったが、最近はむしろざらつきを表明して社会を変えようとしている。今は過渡期なのだろう。ざらつきを表明して運動するのもまたストレスがかかる行為だ、でも運動しなければ何も変わらない。都会と田舎でもまた違うだろう。田舎はまだまだ閉鎖的で、都会の流れを知らない高齢者は無意識に安易に人を傷つける。

Sさんとは一ヶ月ほど仕事場がいっしょだっただけの関係で友達でもなんでもないから、彼が今後どういう人生を歩もうが知ったことではないけど、現代社会は昔と比べて、彼や彼のような人間が生きやすいのだろうかと考えてしまう。自分にとってはどうだろうか、昔よりはいいと思う。ならば彼にとってもいいかもしれない。

話をしていると、なんでこんなことまで知ってるんだと思うほど彼は物知りだが、それが仕事とは直結していないようでもったいなと思う。これだけ知ってるならいろいろできそうなのに、起業したらいいのにと思うが、一方で、あれでは人と信頼関係は結べないから難しいだろうなと思う。

彼とのやりとりを通して思ったことを書き散らしてみた、多少整理できたからよかった。