マルクス『資本論』 資本家と労働者は支配者と被支配者なのか

 

 『資本論』では、資本家は支配者、労働者は被支配者として描かれている。

 これね、僕は「企業」という枠組みでなら正しいと思うんだけど、「(資本主義)システム」という枠組みなら違うと思うんですよ。

 

 このシステムにおいての資本家と労働者は、支配者/被支配者ではなくて、使い勝手のいい奴隷/使い勝手の悪い奴隷という構図になると思うんですわ。資本家は決して労働者の支配者ではない。どっちもただの奴隷である。

 

 使い勝手がいい、悪いとはどういうことか。

 僕は今、遺跡の発掘作業の仕事をしてるんだが、会社の人の指示に従って、スコップなどの道具を使って土を削っていく。土を削る作業は、地層の土の色の違いをはっきりさせて年代や時代を識別できるようにするという目的のためにある。だから、色の違う土と土の境目は、分かりやすくするために丁寧に削る必要がある。

 で、会社の人の「ここの土削ってください」という指示に対して、ただガリガリ土を削っているだけの人は使い勝手の悪い人。一方、使い勝手のいい人は、ちゃんと土を削る作業の意味や目的を理解して、地層の色の違いが分かりやすくなるように削る。

 

 資本家はシステムが何を指示しているのか理解している。だから使い勝手がいい。一方、資本家に使われる労働者はシステムが何を指示しているか理解できない。だから使い勝手が悪い。

 資本主義システムは合理化を要求している。その合理化のために何をすればいいのか?これが理解でき実践すべきことが分かっている人間が資本家となりお金を儲けられるのだ。

 

 資本主義システムにとって使い勝手のいい、理想的な人間はシステムの合理化に人生を捧げられる人だ。

 雑誌『プレジデント』ではよく、エリートビジネスマンの時間の使い方の特集が組まれている。これを読んでみると、朝早く起きてウォーキングしたり、出勤する前にジムに行って身体を鍛えている。休日は家族団らんで過ごしリフレッシュする。座禅で集中力をアップするなど。

 エリートビジネスマンがエリートビジネスマンたるのは、上に書いたものすべてが仕事のためだからだ。身体を鍛えるのは仕事で成果を出すため。家族団らんも仕事で成果を出すため。座禅を組むのも仕事で成果を出すため。仕事以外のすべての時間も、仕事のための時間なのだ。

 こういう人間が仕事で結果を出す人間であり、資本主義システムにとって理想的な人間なのである。

 これは資本家だけの話ではなく、政治家、学者、スポーツ選手、芸術家なども当てはまる。結果を出す人間ほど、人生すべてをささげるのだ。

 

 まぁ、マルクスのせいで、資本家たちは自分たちがシステムにとって使い勝手のいい奴隷だとは思っていないだろう。だが、彼らは自発的にシステムに隷属している奴隷である。

 一方で使い勝手の悪い奴隷である労働者は、休日は酒を飲んだくれたり、仕事に遅刻したりしてポケ―っと生きている。無駄の多い時間を過ごす。生産性のないことばかりしている。

 だがしかし、こういうふうに考えてみると、資本家よりも労働者のほうが、システムに対する忠誠度が低いということであり、労働者のほうがシステムに人生を支配されていないということである。資本家よりも労働者のほうが自由なのだ。

 

 僕は、雑誌『プレジデント』のエリートビジネスマンについての記事や本屋に羅列されている自己啓発本なんかを見てると「気持ち悪いなぁ」と思う。単に僕がひねくれているだけでしょうか?

 

 

マルクス 資本論 1 (岩波文庫)

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