エリート創価学会員とエリートサラリーマン

うちは付き合いで聖教新聞をとっている。誰も読まない。IHクッキングヒーターが汚れないように敷かれている。すると料理中に目に入る。で、ある日、新聞にマンガが載っていて、その内容に気持ち悪さを覚えた。

学会員の集まりで、ある会員が「今月はだれだれを勧誘しました」と発表し、他の会員が「すごい」と褒めていた。それだけでもう気持ち悪いが、さらに気持ち悪いやりとりが続く。そのやりとりを聞いていたおばさんが、隣の主婦に「今度お友達に会うんでしょ?」と尋ね、主婦が「えぇお茶をすることになっているんです」と答えた。すると、おばさんは「勧誘するチャンスね!」。主婦は困ったような顔していた。

おいおい、気持ち悪いなーほんとに。このマンガを描いた作者が、困った顔をした主婦を描いただけまだましなのかもしれない。友達とのお茶でさえも、勧誘の機会にしてしまう気持ち悪さ。鳥肌たつわー。主婦の困惑はよく分かる。こういうのほんとに嫌だわー。

この気持ち悪さには覚えがあって、なんだったけなーとずっと考えていたら思い出した。以前読んだ雑誌プレジデントの、エリートサラリーマンと平凡なサラリーマンの違いを特集した記事だ。

エリートと平凡は、休日の時間の使い方さえ違うという内容で、エリートは、休日にやる筋トレや読書、家族との団らんでさえも仕事への活力にしているということが書いてあった。これを読んだ時、いやはやエリートは気持ち悪いなー、こいつら、労働力だけでなく、休日も搾取されているじゃないかと思った。エリートにとって、休日は休む日ではない、仕事の準備をする日なのだ。つまり、エリートは労働力のみならず、人生そのものを搾取されているといえる。しかも、たちがわるいことに、こいつらは自発的に搾取されにいっているのだ。自発的隷属状態である。

まわりの人間をどんどん信者にするエリート学会員もおそらく、あらゆる機会を勧誘のチャンスと考えているはずだ。平凡な学会員は、友人とのお茶は単なるお茶としか思っていないが、エリート学会員はもちろん勧誘するチャンスと考えているだろう。学会のシステムが、資本主義社会と同じなのかは知らないが、学会からしてみれば、多くの人を勧誘し信者にする人間のほうが価値があるのは当然で、そういう人間はエリートサラリーマンと同じように位が高くなっていくだろう。

エリートのほうが当然、承認欲求が満たされるし、サラリーマンに関しては収入も高くなる。

しかし、エリートは幸せなのだろうか。エリートであればあるほど、そのもの自体を楽しむ至高性は希薄になり、あらゆるものが仕事のため、成果のためという有用性の度合いで測られるようになる。そういうのって息苦しくないのだろうか?

まぁ、エリートであればあるほど、他者だけでなく、自分に対してもサイコパスになるのだろう。勧誘することに罪悪感を感じない、自分のやっていることは絶対に正しくて、幸せにしてあげているのだと100%思いこめるサイコパス、こういう視野の狭い人間こそ、エリートになれるのだ。1ミリでも疑問を感じる人間は平凡なままだ。

ここまでくると、本人だけは幸せなのかもしれないな。本人だけは。本人だけは幸せで、周りはいい迷惑である。

信者と書いて儲けると読むというのは本当にそのとおりで、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神が非常に親和性が高いように、創価学会に限らず、宗教とビジネスはもともと親和性が高いのだろう。ここでは創価学会だけ扱ったが、どの宗教も似たりよったりだと思う。

宗教にしろ、ビジネスにしろ、視野の狭いサイコパスほど、システムにとっては有用性の高い奴隷になってくれる。