なぜ人はカルトに惹かれるのか ―脱会支援の現場から

 

 瓜生崇著『なぜ人はカルトに惹かれるのか ―脱会支援の現場から』を読む。

 

なぜ人はカルトに惹かれるのか  脱会支援の現場から

なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から

  • 作者:瓜生 崇
  • 発売日: 2020/05/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 小説や学術書、雑誌などを読んでいて胸を打つ文章があると、その箇所をノートに一字一句丁寧に書き写す習慣が僕にはある。そういった文章に出会うのはだいたい10冊に一冊くらいで、書き写したいと思う箇所も一冊に一か所くらいなのだが、この本に関してはいくつもの箇所を書き写した。この本を読んでいて、この人はこの文章を本当に心の底から考えて執筆したのだと思わせられた。ある意味ではとても重たい、心の底に沈んでいくような本だった。

 

 

 著者は、オウム真理教の後継であるアレフをはじめとするさまざまなカルト宗教からの脱会を支援する人である。著者自身も、カルト的な性質を帯びる親鸞会に大学生のときに入会、大学卒業後は幹部として多くの人を勧誘し入会させたが、教団に嫌気がさし脱退、その後は逆に脱会の支援をする側にまわっている。

 

 

 なぜ人はカルトに惹かれるのか。

 カルトに惹かれる人というのは、人生の意味について考えてしまう人である。

 

確かに、生まれて成長して、一日一日を大切に生きて、楽しんだり喜んだり悲しんだり苦しんだりして、年を取って死んでいく。ほとんどの人はその当たり前の人生を受け入れて生きていく。それのどこが悪いのだと普通は思うだろう。しかし、どうしてもそれに納得して生きていけない人間がいるのである。「その人生になんの意味があるのだ」と心の底から叫ばざるを得ない人がいるのである。宗教とは、本来そうした人間の持っている根源的な問いをあぶり出すものだ。 P81 

 

  大学に入るまでは部活やら勉強やらに忙殺されて日々を生きるのに精一杯だったが、いざ大学に入って自分が好きにできる時間が格段に増えると、自分自身、上の問いによく悩まされた。

 日常を普通に送って楽しい時間やつまらない時間を過ごす。そうした時間の合間、ふとした瞬間、何の前触れもなく、茫洋とした言いようのない不安、あるいは虚無感のようなものに襲われることがよくあった。あれが来ると、本当に何も手につかなくなってしまい、ただただそれが通りすぎてゆくのを待つしかなかった。

 今でもあの苦しい瞬間を思い出すし、漠としたあの虚無が何だったのかもよく分からない。自分にはすがれるものがない、よりかかれるものがない、脆弱な基盤の上につったっている、そんな感じだった。

 

 そんなときカルトがすぐそばにあったらたぶん入会していたと思う。もし自分がもう少し早く生まれて東京の大学に進学していたらオウムに入っていたかもしれない。マインドコントロールされて駅にサリンをまいていたかもしれない。自分にとって、死刑に処されたオウムの幹部は対岸にいる人ではないということをよく考える。

 

 個人的には、人生には何の意味もないと考えている。よく誰かが、人にはそれぞれ価値があってかけがえのない存在なのですと言っているが、あんなものは嘘っぱちである。トランプやバイデンが死のうが、菅が死のうが、天皇が死のうが、死んだらすぐに代わりの誰かが交代するだけだ。誰かが死んだらそれでシステムが崩壊するような社会は脆弱な社会であり、そんなものが国家あるいは企業として存続しつづけるわけがない。

 iphone愛好家は、スティーブジョブスが存在しなかったらこの世界にiphoneは存在していない、スティーブジョブスはかけがえのない人間だったと言うかもしれないが、ジョブスがいなかったらiphoneのない世界線が選ばれるだけだ。焼肉を知らない人間が焼肉を食べたいと思うか?

 

 人生に意味はない、単なる暇つぶしである。自分はひねくれているかもしれない。

 だが暇をつぶすために、自分は自分だけの小さな物語を編んで生きている。明るいニヒリズムである。これが自分のよりかかれる「神」、「正しさ」である。自分にとってこれは正しいが、客観的に正しいかは分からない。これが自分のスタンスである。こういう思考ができるまでの間にカルトが現れていたらと思うとゾッとする。「正しさ」は結局のところ、自分で作り上げるしかないと思う。そしてそれは必ずしも正しくない。自分が信じられるかどうかが問題なのだ。

 

 「人生に何の意味があるのか」と問い、それが見つからないから人は思い悩む。そんなときにカルトは「正しさ」を提供してくれる。それは偽りの「正しさ」だが、考えて考えて考え抜いても分からないなか、答えを与えてくれたカルトに希望を感じる。苦しむ自分に、楽になる薬を与えてくれたわけだから。しかしそれは偽薬なのだ。苦しむ自分を麻痺させているだけにすぎない薬。しかしこの「正しさ」に依存しないとまた苦しみが戻って来る。そうしてカルトの沼にずぶずぶとはまっていく。

 

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 ナチスやオウム、最近では相模原の障害者を大量殺人した植松、こういう組織や人を、普通の人たちは自分とは別の人、対岸にいる人だと思っている。でも本当にそうなのか。そうではなくてそういう人たちと自分たちは地続きの人だと思う。

 

自らの自由な判断と意志で生き、カルトの価値観からは離れたところに立っていると信じることはできても、たまたま「社会の常識」という影響と期待の上で作られた「正しさ」の上で、カルトをさばいているだけかもしれない。人を殺してでも多くの人を救えるならそれは必要な救済である、というオウムの考えを間違っていると言うのは簡単だが、「社会の常識」という背景が変われば、いつかはまた私たちもそれを、「正しいもの」とするかもしれない。 P121-122

 

 

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 

 ここ数年くらいなのか、あるいはもっと前からなのか、努力してもどうしようもない閉塞的な状況が訪れている。

 資本主義社会は平等で、頑張れば頑張った分だけ報われる。自分は大した家柄でもなんでもないけど、努力して勉強していい大学に入っていい会社に入って幸せだ。そういう人は以前はたくさんいたと思う。

 でも今はどれだけ頑張ってもどうしようもないみたいな、とてもしんどい社会になってしまった。

 

  そしてこの傾向が今後も加速していくことは確定している。

 AIは多くの人の仕事を奪う。資本主義社会で労働者は搾取されているわけだが、AIが浸透した社会では多くの労働者が完全な用無しになる。それは搾取される以上に深刻な状況である、存在意義が失われるわけだから、そうユヴァル・ノア・ハラリは言う。

 

 

  シロクマの屑籠の記事にあるように、この社会には、コツコツ努力するのは当たり前なのだという価値観が浸透している。努力するのは当たり前なのだ。それが社会の常識。

しかし格差があまりにも大きくなって努力しても報われず、そして遠くない将来、多くの人の存在意義が奪われる状況が訪れる。

 

 

 コロナが息苦しいこの世界をさらに息苦しくし、AIが私たちの存在意義を奪おうとしている。

 働くという行為は、直接的にせよ間接的にせよ人の役に立つ行為である。

 それができなくなるとき、多くの人は人生の意味について考える。

 答えが出ず苦しんでいる横に、カルトの足は近づいてくる。

 

 死刑を宣告されたオウムの幹部は「第二のオウムはまた生まれる」と言ったらしいが、第二のオウムが生まれる社会は着々と醸成されているように感じる。