pha『ひきこもらない』、レンタルなんもしない人『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』をよんだ

いい。

世の中にはクソみたいに自己啓発本があふれてて、どこでもかしこでも成長、成長また成長で辟易する。そうしたなかでこういった自己脱力本は貴重である。

多分、自分たちのような人間は、脳の欠陥のせいなのかなんなのかわからないけど、「普通の平穏な暮らし」というのが致命的に無理なのだ。無理に普通の暮らしに嵌め込もうとしても、やっぱり何かがうまくいかなくて、自分の中のストレスや周囲との齟齬がたまっていって、そのうち爆発し、自分にとっても周りにとっても良くない結果になる。そういう失敗は僕も何度もやったし、周りでも月一くらいのペースで目にし続けている。だから、平穏や安定や協調というものが向いていない僕らのような人間は、常に落ち着きなくいろんな場所を移動し続けたり、定期的に仕事を変えたり家を変えたり、人間関係をシャッフルしたりリセットしたりと、とにかく全力でふらふらし続けることが必要なのだ。『ひきこもらない』

はぁ、分かるわぁ、この感じ。

この国は、普通であればものすごく生きやすい国なんだろうが、そこから外れていると外れている分だけしんどくなる。同調圧力が強い。自分も自分を普通に近づけようとするんだが、そうすると自分のなかにストレスがたまってくるんだよな。で、どっかで爆発する。自分の場合は、フェードアウトすると言った感じのほうが近いか。

 

街中に居場所がもっとあればいいという章では、公園で将棋をやってるおっちゃんの光景を見てああいうのいいなーて書いてある。ああいう空間ってそういえばかなり少ないなーと感じる。どういえばいいのかな、だらしなくしててもいい空間というか、ポケ―っとしてても何も言われない空間というか、何者でなくてもいい空間というか、まぁとにかくしんどくない空間が街中にもっとあったらいいなと思う。

高校のときの学園祭で、クラスで教室で何かするという決まりがあって、教室に迷路を作ったりだとか、メイド喫茶をするだとか、映画を撮るとかあったんだが、誰かが仮眠室にするっていう案を出してて「それいいなー」と思ったのだが案の定却下された。

街中に、仮眠室的な空間があればいいなーと思う。別に仮眠をとるだけでなくて、寝転がったり、だらけたりできる場所。ネットカフェとかスーパー銭湯はそれに近いと思うが、田舎はそういう空間がないな。

 

そういった空間もなければ人もいなくなったような気がする。

中学のとき、なんばのおっちゃんという変わったおっちゃんが中学の近くに住んでいた。自転車に「ナンバー1」と自作したしょうもないダジャレのステッカーを貼ったり、レジ通り抜け作戦とか言って金を払わずレジを通り抜けようとして捕まったりしたちょっとおかしなおじさんがいて、われわれ中学生の人気者だった。文化祭に来て、人権についてみんなの前で長々と発言したり、その後クラスに乱入してきて数学の先生に制止されたりで、面白かった。ああいうのは、いろんな事件の犯罪者と紙一重なんだろうけど、ああいったおじさんの存在って、うまく表現できないけど、とても大きな存在だった。こういうのでもとりあえず生きてるんだな、生活できてるんだなと思わせてくれる存在。ある意味では、先生以上に大事なことを教えてくれる存在である。世の中の人間すべてがちゃんとしている社会は、平穏で平和で安定しててそれはそれですばらしいと思うが、自分のような人間にはとても息苦しく感じてしまう。phaのような、京大を出てちょっと働いたけど会社でじっとしていることに耐えられなくてやめてその後ニートとしてずっとふらふらしている人の存在って、とても大きい。

「普通」の水準がどんどん上がってきているけど、でもそれは茹でガエルといっしょで、みんな上がっていることに気付かないんだよな。多くの人が、普通をこなせなくなってきていて、だから普通との乖離に苦しんでいるけど、それは求められているハードルが上がっていると思うのではなく、自分が劣っているからだと思うし、社会も自己責任で片付けるから余計にしんどい。

僕みたいにいい年してるくせに定職につかず家族も作らずふらふら生きているような人間は、日本社会の中では変に思われたり白い目で見られたりすることが多い。そうしたいわゆる「普通」から外れた人間が息苦しさを感じる理由の一つは、日本社会が基本的に単一民族で、同じ人種ばかりが住んでて多様性が少ないせいだと思っている。みんな見た目が同じだから、「みんな普通に同じようなことが当たり前にできるはずだ」みたいな思い込みを無自覚に持ちやすくて、「普通」をみんなに押し付けるということが起こりやすいのではないだろうか。だから、もっといろんな国のいろんな人間が日本にやってきて、多様性が上がってグチャグチャな感じになったらいい。そうしたら日本的な「普通」の概念が少し揺らいで、僕みたいな人間は生きやすくなるんじゃないかなと思う。

 

レンタルなんもしない人というのも変わった人で、普通に生きることができない人だ。

だからこそなのかもしれない、なんにもできない人だからこそ需要がある。いてくれるだけでいい、存在だけの需要ってのはけっこうあるようで、日記形式で文章が構成されているが、ほとんど毎日のように依頼があってどこかに出向いている。

以前、この人に対するコメントで、こういうことを売りにして稼いでいるのだというものがあった。こういうサービスをして自分を売りタレント化して書籍を売ったりドラマに出たりするみたいなことをして商売しているという批判。でも本を読んでいると、この人はそんな器用なことができそうではない。この人は交通費と飲食代(かかれば)だけで依頼を受けている。妻子がいるのに、交通費と飲食代だけしかとらないというのはよっぽどおかしい人でないとできないと思われる。

スタンド使いにはスタンド使いが引き寄せられるというが、変わった人のもとには変わった人が吸い寄せられるらしい。世の中には面白い依頼がたくさんあるのだ、そして変わった人は思った以上に世の中にたくさんいるんだなと思った。

あと、ふかわりょうの表現能力の高さにグッと来た。

この「レンタルなんもしない人」という活動、「新手のヒモ」「新手の乞食」「単なる無職」など散々な言い表し方をされることが多くてよく気が沈むんですが、以前出たAbemaTVの番組で、ふかわりょうさんが「面白い船が集まる港」と表現してくれて、それを時々思い返すことで気を保ってるとこある。

いやーふかわりょうのこの表現、粋だよなー。いい表現だ。

 

にしても、東京は人が多いからその分変な人がたくさんいてうらやましい。田舎にもいるんだろうけどな、もっと変な人が日本中にあふれてほしいよな。そうしたら、子どもたちも社会や大人に絶望して自殺しなくなると思う。やっぱり大人、特に政治家とか日本を牛耳っている人間があれだけゴミクズだと絶望してしまうよな。それでも、世の中には、変で不器用でそれでもどうにか頑張って生きてるんだよという人たちがたくさんいて、そういう人でも認められる社会になれば、いやこういう社会こそ真の多様性のある社会だと思うが、誰にとっても生きやすい社会になると思う。