グーグルアドセンスで11月は1200円くらい稼げた。嬉しい。
1日1200円ではなくて一ヶ月で1200円である。バイトで1時間働けば稼げる額なのになぜ嬉しいのだろうか?
あてにしていないものが思ったより稼いでいたからというのはある。そもそも以前は月150円くらいで、おー今月はジュース一本買えるじゃあないか!と嬉しかった。今はジュース8本くらい買える。
ブログを始めたころは、ブログで稼げたらいいなと思っていた。ブログは記事がどんどん貯まっていくから、どんどん稼げるようになるんですよとブログ指南本に書いてあったような気がする。書くのは好きだし、それで稼げるなら言うことなしッ!てことで始めたが、現実はそんなに甘くはない。早々と諦めた。
もちろん、指南本に従ってもっと戦略的にブログ運営していたら違っていたかもしれないが、自分は、たとえ稼げなくても書きたいことを書きたいときに書きたいように書きたいという思いを優先した。まぁそういうのではやっぱり厳しいので稼げない、というよりはそもそもブログに来る人もあまりいなかった。
とはいえ、そういう思いを優先したから、3年近くブログを書き続けていられる。ブログを始めても1年で辞める人が9割くらいいるというが、それはやっぱり稼ごうと思っても稼げないからしんどくなってしまうのだろう。書くこともなくなるしな。書くことは趣味で、ついでにお金が手に入るならラッキーくらいのスタンスでいられるから続けられる。
というような感じだが、それをふまえても、自分の記事が少額でもお金を生んでいるというのはなんだか嬉しい。額の問題ではない、なんだろうなこの感覚。500記事以上書いているという労力に対しての感情?、いや労力とは感じていないな、ただ書きたいことを書いてきただけだし、稼ぎたいから書いてきたわけでもない。0ベースで考えているから、プラスができたことに対する嬉しさなのだろうか。
逆に、家事はお金が生まれない労働でシャドーワークと呼ばれ、イバン・イリイチなどの哲学者も考察している問題だが、本来大変な労働に対してお金が生まれないというのはどういう感情が芽生えるのだろうか?自分は家族の料理を作ったりするが、自分の分をつくるついでという感じだから特に何とも思わない。でも、専業主婦は明らかに労働になっているわけで、それに対してお金が発生しないのはしんどいかもしれない。逆に、お金が発生すればしたで、そこには資本主義マインドが発生して、生活そのものが搾取されはじめるかもしれない。家事という生活空間にも資本主義が侵入してくるのだから。自分の生活そのものを金銭的価値に置き換えて考え始めるとむなしい人生になると思う。お金が発生しないことで、逆に守られていることもあるかもしれない。
投資家とかはどうなのだろう?彼らは指一本で何千万、何億とお金を動かし稼いでいるわけだが、楽しいのだろうか嬉しいのだろうか?あるいは、今回のオリンピック汚職に関わった政治家や広告業の人間はああいうことしてお金を稼いで嬉しいのだろうか?汚職している連中は労力のない労働をしているわけで、そういうのはやってて楽しいのだろうか?
お金というのは不思議なもんだな、他の人については知らんが、少なくとも自分に関しては、稼いだ額と嬉しさに相関関係はないようだ。少なくても嬉しい場合があるし、たくさん稼いだからって嬉しいわけでもない(たくさん稼いだことはないが)。