『淀川アジール』感想

『淀川アジール』を観た。

 

さどヤンというホームレスの生活とそこに集まる人や動物との交流を描いたドキュメンタリー。

 

アジールというのがいい、いろいろな人が集まってくる。さどヤンという人間の人柄もあるんだろうが、この場所がいろんな人を受け入れていることによって、救われている人はたくさんいると思う。

 

大阪という土地柄もあるんだろうか、映画ではさどヤンもまた、ある意味で普通の人として人々の中にいるような感じがした。ホームレスというと、どうしても「向う側の人」として壁ができてしまうものだと思うが、さどヤンのところには淀川アジールで子どもたちに剣道を教えるじいさんがいたり、ネコにえさやりにくるおばさん連中がいる。さどヤンの誕生日会には、ヘンな人たちがたくさん集まってきていた。こういう光景を見ていて、こういうのが本当の意味での多様性なのかなと感じた。

 

多様性の大事さが叫ばれていて、そのとおりだと思うが、なんだか今の社会の多様性って、暴力的な多様性というか、多様性を盾にして相手を攻撃するみたいな、非常にギスギスしていて逆に息苦しさが増している。そうじゃなくてもっとラフでいいんじゃないかと淀川アジールを見ていて感じた。

 

なんかいいなーと思ったのが、十三の花火大会の日、淀川アジールの近くでカップルとか家族連れが普通に河川敷で見物している光景。誰もがナチュラルに共存している感じがして良かった。普通に接するというのが一番難しいのだ。日本では大阪が一番それが普通にできている土地だと思う。

 

淀川アジールは当然河川法に違反していて、何度も退去命令があった。社会の合理性を考えると、淀川アジールは明らかに廃棄されるべきものだが、最近注目されるサードプレイスって本来は淀川アジール的な空間だと思うんだよな。公共の空間で淀川アジールのようなサードプレイスが作れるのだろうか。公共空間というのは、ちゃんとしていないといけない。ちゃんとしているというのは、目的にあった使い方をしているということだ。ベンチは座るところであって、寝るところではない。だから、排除アートといって、寝られないように仕切りやてすりがつけられているベンチが公共空間に置かれている。

 

さどヤンのところにいろんな人が集まれるのは、あそこがちゃんとしていない空間だからだと思う。世の中のちゃんとしていないといけないという圧力がどんどん高まっている。そんななかで、あそこはちゃんとしていない空間だから、アジールとして機能するわけだ。昔は、社会がもっと混沌としていて、淀川アジール的な空間が至るところにあっただろうし、何をしているか分からない人やちゃんとしていない人がもっといたはず。それはつまりカオスで違法なことが跋扈していたことと表裏一体で、行政はそこを浄化していったからこそ、清潔になっていったわけだが、そうなることでアジール空間は消失していってしまった。難しい問題だと思う、人は誰でもちゃんとしていない部分を持ち合わせていて、ちゃんとしていない人や空間が社会のなかにあるからこそ他の人々は楽になれるのだ、それなのに社会がキレイになっていってちゃんとした空間ばかりになってしまったことで病んでしまう人間が増えた。汚い部分はキレイにしないといけないが、そうすれば今度はそのキレイさに対する拒絶が起こるのだ。

 

さどヤンは今70代中頃か、ああいう人が長生きできる社会であってほしいね。