國分功一郎 熊谷晋一郎『〈責任〉の生成』を読んだ感想

とても興味深い内容だった。

中動態と当事者研究をもとに、「意志」や「責任」の生成について考えた一冊。

 

この本で印象深く残っているのは、加害者の責任の芽生えに関するくだり。犯罪を犯した加害者の責任をいったん留保することで、逆に加害者には自分の犯した罪の責任をとろうとする意識が芽生えるという現実があることに驚いた。

普通はテレビドラマとかでよく見るように、刑事が「お前がやったんだろう!白状しろ!」と迫り、容疑者は「やってねぇよ!」とか「はい、私がやりました」というように応答する。その犯罪は容疑者が自分の意志で行為したと認めさせる。そして、悪いことをしたのだから、その責任をとらなければならないとして、懲役何年とかというふうに罰を与え更生させる。

とはいえ、罪人のなかには、責任というのが一体なんなのか分からないという人もいるらしい。

で、更生の一つの方法として、犯罪行為を一つの現象とみなすというものがある。たとえば、放火が起こる。で、その放火の原因を放火犯の意志によって起きたものとするのではなく、放火という現象が起こったとみなす。放火という現象と放火した人を切り離す。放火犯に責任はない。このように、行為の原因をいったん外在化する、誰も悪くない、犯人探しはしないというプロセスを経ることで逆に放火した人には罪の意識が芽生えるのだと熊谷さんは言う。

 

われわれの普段使う言語の構造は能動態\受動態で、この構造だと行為を必ず主体に帰属させることになる。だから、放火という現象と放火した人を切り離して考えるということが困難になる。いやいや、放火した人間は自分の意志で放火したんだから悪い人で、責任をとらなければならないでしょと普通は考える。

しかし、古代ギリシャには中動態と呼ばれる態があり、「私」は行為を起こす主体ではなく、行為が起こる場所となり、そこに意志や責任は介在しないのだ。

著者の國分さんは言及していないが、アメリカの心理学者ジュリアン・ジェインズは、古代人は二分心を持ち合わせていて、神々の声を聞きながら行為していたと著書『神々の沈黙』で主張する。

つまり、古代人に意志はなく、彼らは神々の声を実行する場所にすぎなかったわけである。古代人の「私」が何か行為するとき、その行為は「私」の意志によって行われたのではなく、神々の声によって行われたわけだから、そこに意志や責任は介在しようがないのだ。

だから、古代人が行為や現象を言語によって表現するとき、中動態を使わないとむしろ矛盾が起こることになる。

 

『〈責任〉の生成』と並行して、薬草の本を読んでいたのだが、その本に現代でも中動態的な生活が行われている生活共同体のことが書かれていて驚いた。

この本に、東アフリカのコモロという社会のことがのっている。この社会では、病気はジニという精霊によってもたらされるとされている。病気にかかった患者はシャーマンのもとへ行く。そして7日間の宗教的儀礼が行われ、最初の6日は薬草などを用いた薬浴をする。そして7日目、儀礼のなかでトランス状態に入った患者は、病をもたらすジニと分離させられたとみなされる。その後、村の人たちが集まってくる。饗宴が始まり、歌ったり踊ったりしクライマックスを迎える。トランス状態のなかで、患者に取り憑くジニはその名を名乗らされる。それは患者とは別の名である。そして、患者の魂と、病をもたらすジニの魂は結婚するのだ。まさかの、病と、結婚するのである。そしてみんなでこの結婚を祝い、病は村全体で受け入れられる。

 

病は、自分とはべつの存在によってもたらされるものである。だから、自分が病を患っても、自分に責任はないし、その病は患者とともに共存するべきものとして、共同体にも受け入れられる。これがコモロ社会の病に対処する術で、非常に中動態的だなと思った。病は「私」という場所で現象しているわけだ。

一方で、近代的医療を施す先進国はこれとは逆である。アメリカでは太っている人は採用されないらしい。なぜなら、自己管理ができていないとみなされるからだ。太っているのは、自分の生活に問題があるからで、それは自分の責任なのだ。

日本も同じである。コロナ罹患者が出始めた20年頃、コロナにかかった人間の家に石が投げ込まれたり、放火されたりという事件があった。コロナにかかるのは仕方ないと政府や専門家が言っていたにもかかわらず、多くの国民はコロナにかかるのはかかった人間の行動に問題があるからだとみなした。コロナにかかったのはいろいろと出歩いたり、マスクをしなかったからに違いない、つまりその人間に責任があると考えたからこそ石を投げつけたのだ。

アメリカでも日本でも、病にかかった人間は病院に隔離され治療される。つまり、社会から排除される。一方コモロでは、病は結婚相手として祝福を受けて共同体全体で迎え入れられる。われわれは、こういった社会を未開社会と呼んだり、発展途上国と呼んで見下す。しかし、一体何をもって開けていないとか発展の途上というのか、われわれ先進国はずいぶん傲慢なように自分には思える。

 

『〈責任〉の生成』で、他に興味深かったのは、綾屋さんという自閉症スペクトラム症の研究者の知覚について。

たとえば、われわれは腹がへったら「腹がへった」と知覚し、すぐに食事をとることができる。ところが、綾屋さんの場合、腹がへっていてもそれがうまく知覚されず何食分も抜かしたあとに腹がへったと知覚するらしい。われわれは外部からさまざまな情報を受取り、それらの情報をうまくまとめあげて判断を下したり行動に移したりする。綾屋さんによれば、これと同じように、内蔵という内部でもさまざまな情報がとびかっていていて、腹がへったという知覚も内蔵からの情報をまとめあげたうえで知覚できるのである。ところが、綾屋さんの場合、その内臓からの情報をうまくまとめあげることに時間がとてもかかるので、「腹がへった」と知覚するのが何食分も抜かしたあとになるらしい。

このくだりを読んでいて、ベルクソンの『物質と記憶』を思い出していた。この本のどこかに、円錐の図があって、円錐の頂点は現実との接点で、底面は夢、そのあいだはイマージュが移ろっているみたいな記述があったと思う。だけど、綾屋さんのくだりを読んでいて、実際は円錐というよりむしろ砂時計のような、2つの円錐が頂点で接しているイメージのほうが正しいのではないかと思った。砂時計の一方の空間が外界で、もう一方は内蔵のような内界。そのあいだに「私」という場所が存在している。で、健常者であるほど、砂の落ちる「私」部分が狭く、情報をうまくまとめあげることができる。一方で、綾屋さんのような方は、砂の落ちる「私」部分が広く、情報という砂がたくさん流れ落ちるのでうまくまとめあげることができない。だから知覚にひどく時間がかかる。

とはいえ、國分さんと熊谷さんも議論で言及しているが、健常者はこうした知覚を「うっかり」している可能性がある。本来は、たくさんの情報があって、そういった情報は矛盾していたり相反していたりして情報の選択には時間がかかるはずである。それを健常者は一瞬でやっているわけだから、いろんな情報を「うっかり」見落としているわけである。本来的には、綾屋さんのように時間がかかることのほうが正常なのかもしれない。

このくだりを読んでいて、オルダス・ハクスレーベルクソンか誰かの哲学をひいて、脳というのはバルブの役割を果たしているのかもしれないと言っていたのを思い出した。

世界には膨大な情報が飛び交っていてすべてを受け入れてしまうとわれわれはパンクしてしまう。そこで、脳というのはバルブの役割を果たしていて、情報を絞りあげるのである、パンクしてしまわないように。これは彼の『知覚の扉』で言及していたことである。

彼は薬物(メスカリンだったか?)を使って、自分の身体に何が起こったのかこの本で記している。薬物は、脳というバルブを緩める機能があって、そうすると、いろんな情報が入ってくることになる。今まで脳が勝手に捨てていた情報が入ってきて、これまでに体験できなかった経験が得られる。これがいわゆるラリった状態である。多くの芸術家がこのようにして通常は見ることのできない世界を見て、さまざまなものを創造してきたわけだ。

歴史上の多くの芸術家とかすばらしい研究を行ってきた者に、発達障害とか自閉症のような症状がみられるのも、これで合点がいく。つまり、彼らは、健常者の脳が「うっかり」捨ててしまう様々な情報を捨てることないので、独創的な思考やアイデアが湧くのだ。しかし同時に、捨てることができないがゆえに、判断や行動に遅れが出たりしてしまう。健常者で占められる社会において、それは障害とみなされる。

 

『〈責任〉の生成』ではこの他にも多くの興味深い議論がなされている。大学かどっかで講義形式で行われたものが収録されていて、聴講者との質問のやりとりも収録されている。聴講者のなかには医療従事者やアダルトビデオ制作者の二村ヒトシもいたりで、なかなかいろんな人がこの講義に駆けつけていたんだなと面白かった。おすすめの一冊。