ワイパーゴムとハイデガー現象学

昨日車で出かけようとしたとき、夜露で濡れたフロントガラスをワイパーで払おうとしたら、ワイパーのゴムが切れていることに気づいた。

えーまじかよーなんだこれーと思って、スマホでゴム交換について調べて、オートバックスで替えのゴムを購入して、いろいろ調べながら先程ゴム交換を終えた。

ゴムが切れてネットで検索して初めて、ゴムってのはだいたい半年から1年で交換するものであることを知った。

日常的に車に乗り始めてだいたい3年くらいたつが、これまでワイパーのゴムに不具合が生じたことはなかったし、もちろん交換したこともない。定期的に交換するものであることも全く知らなかった。たしかにフロントガラスをちゃんと拭き取れていなかったような気がするが、あまり気にしていなかった。

 

今回ゴムを自分で交換して初めて、ワイパーの構造を知り、ゴムの交換の仕方を知った。それで、あ、これはハイデガー現象学だなとふと思った次第。「存在と時間」では、手近存在と手許存在という概念があり、今回の件でワイパーは手近存在から手許存在に変わったのである。

とはいえ、これまでワイパーを道具として使っていたわけで、その意味ではワイパーは自分にとってもともと手許存在であったといえる。しかし、今回の件で手許存在としての深度がより深まったといえる。

現象学的な意味において、われわれの世界は明らかに複雑になっていて、今回のワイパーの件でも分かるとおり、同じ手許存在でも自分はそのものを何もわかっていない事態に陥っている。

自分は前々から、自力で小屋を建てられるようになりたいと思っていて、自分の家などを観察していたが、今振り返れば何も見ていないに等しかった。

最初、軽トラに載せられる規格のキャビンを作ってみて自分は何も見ていなかったのだとを理解した。サウナ小屋を作ったり、建物の解体やリノベーションを手伝ったりして、だんだん建物の構造を知った。そうしたプロセスを経て、建物をより深い深度で観察できるようになった。

資本主義は世界をあまりに複雑にして分業化してしまったので、われわれは手近な手許存在を日々利用しているという事態に陥っている。

この本の著者も述べていたが、自分は毎日家に住んでいるのに、その家のことを全く知らないという不気味な状況に投げ込まれている。自分で自分の家を建てることで初めて、その構造を理解できる。家を自力で建てるというのは、極めて哲学的な営みなのである。

しかし、資本主義システムは、そうした行為を許容しない。自分で自分の家を建てるよりも、お金をだして大工に家を建ててもらい、そのお金は働いて稼いでくるという仕組みのほうが経済が回るからだ。同じように、自分で子育てするよりも、お金を出して保育士にみてもらい、そのお金は働いて稼いでくるというシステムになっている。そしてそのほうが合理的だ、自分で家を建てるよりもプロにまかせたほうが、自分で子供の面倒を看るよりもプロにまかせるほうが安心だから。このようにしてわれわれは、自らの世界を自らの手で貧困にしているし、世界はそうせざるをえないようなシステムになっている。

 

ハイデガーは「言語は存在の家である」と述べたが、用語に斜線をひいて、言葉の存在をうちけそうとするなど、晩年は言語そのものを否定しようとした。たぶんハイデガーは、ゲーデル的な世界を言語に見出したのだと思う。例えるなら、言語は井の中であって、本当の世界は大海なのだ。それを言語で示そうとするには、言葉に斜線を引くという表現をするしかなかった。

その点、東洋哲学は遥か昔からハイデガーの先を行っていたわけで、そこらへんの分析は井筒俊彦が鮮やかに描いているし、『ゲーデルエッシャーバッハ』で有名なホフスタッターもこのことを著書で別の角度から描いている。

 

現象学は、自己にとっての世界の立ち現れ方を解明する学。レヴィストロースが未開の地で、現地住民に「この草はなんという名前か」と尋ねたら笑われたとエピソードをなんかの本で書いていた。現地住民にとって用無しのその草に名前はなく、彼らにとってその草は存在していないのだ。言語が存在の家なら、現地住民にとってその草は家の外にあるものである。とはいえ、その草はべつの体系では存在している。だからこそ、レヴィストロースはその草の名前を問うたのだ。

家は檻でもあって、存在の可能性を限定しているともいえる。家にいることでむしろ家に囚われ、外の世界を知らないままでいるのだから。

 

ワイパーゴムは偶然切れて、そしてその偶然によって自分はワイパーの構造を知ることになった。そう考えると、個々の人間の現象学的な世界は偶然によって構成されているといえる。もちろん、ワイパーゴムを自分で直さず、オートバックスにまかせておけば自分はワイパーの構造を知らないままだったわけで、自分の世界は偶然だけではなく、好奇心とか関心によっても構成されている。だから興味とか関心はInteresting、Interは「交わる」を意味する接頭辞だから、その世界と自分が交わることが興味を持つということになるのだ。

 

最近、なんとなく考えていたことを言語化してみた。