ろうそくの炎とゼノンのパラドックス

この前電気の通っていない暗い部屋のなかで、ろうそくを灯し薪ストーブの火をボ~っと見ていた。ろうそくの炎の影で部屋の壁がチカチカ点滅していたのを見て、すごく不思議に思った。

 

どうして影は点滅するんだ?

 

ろうそくの炎が揺らめいたり、伸び縮みするとき、部屋の壁に映った影は点滅していた。これって不思議じゃないか?これが不思議に思うのは自分だけなのか?

たとえば懐中電灯の光をコップに向けると、その向こうの壁にはコップの影が映る。懐中電灯のスイッチをオフにすれば影は消える。オンオフを素早く繰り返せばコップの影は点滅しているように見える。これはなんら不思議なことではない。

ではなぜ、ろうそくの炎はついたり消えたりをしているわけではないのに、影が点滅するのか、これがよく分からない。というか、それはろうそくの炎の影なのか。点滅しているそれはろうそくの炎の影なのか?あれは一体なんなのだろうか?

 

これを不思議に思っていると、まずゼノンのパラドックスを思い出した。アキレスと亀や飛ぶ矢は飛ばないというあれだ。

飛ぶ矢は飛ばないというパラドックス。飛んでいる矢をカメラで撮ると、当然写真に写った矢は止まっている。では無限にシャッターをきるとどうか。写っている矢はすべて止まっている。飛んでいる矢は飛んでいないことになる。運動しているものは運動していないというパラドックスの完成である。

 

ろうそくの炎が揺らめいたり、伸び縮みするとき、部屋の壁に写る影は点滅していた。

揺らめいたり、伸び縮みするというのはつまり運動である。炎は運動する。その運動は、壁に点滅として表現されている。これは面白い。3次元空間で運動する炎は、壁という2次元では点滅として表現される。点滅というのはつまり、影があるときとないときが交互に現れるということである。ん?炎は運動している、影はあるときとないときが交互に現れる。これはゼノンのパラドックスと同じだ。炎が運動しているあいだ、ある瞬間でシャッターを切ると影がない状態が切り取られ、また別の瞬間でシャッターをきれば影のある状態が切り取られる。その連続が点滅である。揺らめく炎は揺らめいていないのパラドックスの完成である。

飛ぶ矢は飛ばないのパラドックスも、3次元と2次元の関係で説明できる。飛んでいる矢はもちろん3次元空間を飛んでいる。一方、それをシャッターで切れば飛んでいる矢は写真という2次元の「壁」に表現されることになる。運動と瞬間の関係は、3次元と2次元の関係に置き換えられるようだ。

このように考えると、面白いことに気付く。われわれの目は一個のスクリーンであって、目に映るものは網膜から視神経を通って脳に信号が送られる。目というのはカメラである。だから、3次元の運動は、われわれの目でいったん2次元の影へと次元が落とされ、脳では再び3次元の運動として認識されるのである。

だから、ゼノンのパラドックスパラドックスであってパラドックスではないのである。3次元で飛んでいる矢は、2次元では飛んでいないというだけの話であって、日刊予言者新聞じゃないのだから2次元に写った矢は飛ばないのである。

 

ゼノンのパラドックスを思い出したあとは、プラトンの洞窟の比喩を思い出した。

プラトンによれば、われわれはちょうど洞窟のなかで鎖につながれている囚人であって、われわれが見ているものはすべて影なのである。火そのものは見えず、洞窟の外で火に照らされたものが影となって洞窟の壁に写る。われわれはその影を見ているにすぎない。これはちょうど、ろうそくの炎ではなくて、壁にうつった影の点滅を見ている自分と状況が同じだ。

プラトンのこの比喩が現実で正しいとするなら、われわれは、4次元空間にあるものが3次元空間に照らされた「影」を見ていることになる。3次元空間で運動する炎は、2次元空間では点滅する影として表現される。プラトンは、われわれが見ているのは影だと言った。われわれがこの現実で見ているのは、実際には3次元空間であり、運動である。点滅ではない。それなら、こう考えるべきなのだ。われわれが3次元で見ているのは、4次元の影なのだと。

このままだと言葉が渋滞してしまうから、それに値する適当な言葉を考えるべきだ。3次元での運動は、2次元だと瞬間の連続になる。運動と瞬間の連続は、現象としてはまったくべつものだ。だからパラドックス、矛盾と呼ばれることになる。3次元での運動は、4次元では「超運動」とでも形容しておきたいが、おそらく運動とはまったく質の違う何かが起こっている。とはいえ、4次元で何が起こっているか見ることはできないから、便宜的に「超運動」と形容しておくことにする。4次元と3次元の関係は次のように表現できる。われわれが3次元空間で目にしているのは、4次元空間での超運動の影である。

 

あともう一つ、不思議なものを見た。

ろうそくの炎は、天井や壁に縞模様の影となって現れていた。これを見てすぐに、量子力学の2重スリット実験を思い出した。でも、おかしい。ろうそくの炎と天井や壁にあいだにはスリットはないのだ。あるのは空間だけで、遮るものは何もないのに、縞模様ができていた。どういうことだろうか、あるいは自分の目に錯覚か?スマホで写真を撮ろうと思ったが、部屋が暗いから何も映らなかった。

なんであんな模様になるのか分からない。暗い部屋でろうそくを灯すだけだから試してみて欲しい。縞模様になるはずだから。

 

2重スリットの実験は多世界解釈とつながってくるわけで、そうなると4次元世界が先に書いたゼノンのパラドックスプラトンの洞窟の比喩とも関わってくる。

3次元で運動する炎は、2次元では点滅する。ある瞬間には影ができているし、また別の瞬間には影がない。これを次元を一つあげてみると、次のように表現できる。4次元で超運動している自分や世界は、3次元ではある一つの運動をしている。多世界解釈の説明では、同じ瞬間に家で朝ごはんを食べている自分とすでに会社で働いている自分といったものが表現される。3次元ではありえないが、4次元ではこれはありえる。3次元で運動する炎は、2次元では影のある状態とない状態に分岐する。これをふまえれば、4次元で超運動している自分は、3次元では朝飯を食う自分と会社で働く自分に分岐するわけだ。そしてわれわれが認識できるのはどちらかの自分だけである。

 

プラトンは、肉体は魂の牢獄であるとして、死んだあと魂は肉体を離れイデアの世界に到達すると述べた。それはあながち間違いではないのかもしれない。われわれが4次元の超運動を認識できないのは、肉体の認識が3次元までしかできないからである。魂が4次元を認識できるかとか、イデアの世界が現実的な意味(現実とはなんだ?)でどういう世界なのかとかはもちろん分からないが、プラトンの言っていることはそう的外れでもないように思う。