自由について

この世界は魑魅魍魎で、得体のしれないものが蠢いている。言葉にするならいろんな神とかウイルスとか宇宙人とか、あるいは形容することのできないその他いろんなものが蠢いている。

人間はこの得体のしれない世界に、社会というシェルターを構築することで自らを守る。社会はたくさんの人間が協力して作られている。一人ではできない。協力してつくるのだから社会がスムーズに運営されるために合言葉が必要になる。それが言語である。

このシステムのなかに入るには合言葉が必要で、システムに入った後は安定が保証される。そのかわりに自由を差し出すことになる。協力するためにはルールが必要であり、みなが自分勝手に行動していればシステムは維持できないからだ。

社会というのはつまり、シェルターであると同時に檻である。この檻は、動物園にある檻でもいいし、マックス・ウェーバーのいう鋼鉄の檻でもいいし、ミシェル・フーコーのいう監獄でもかまわない。

以前、ある文章で、われわれはシステムの奴隷であって、そこを越え出ることは不可能であると書いた。われわれは檻の外で生きていくことはできない。というより、檻の外にいる者は、本質的に人間ではない。システムの奴隷であるという状況は変えられない。しかしシステムへの依存の度合いを自分で調節することはできる。自分の置かれている状況を認識し、システムとの距離を自分で調節できる力、それが教養だと書いた。自由はそこにしか見いだせない。

とはいえ、これは非常に消極的な自由だなとずっと思ってきた。結局のところ、檻の中でどう生きるのかという話に終始しているからだ。本当の意味での自由とはやはり、檻の外にでることが可能だということだ。とはいえ、社会という檻の外に出ることは死を意味する。われわれはシステムにまったく頼らず生きることなど不可能だからである。

そこでシステムという檻に入る前の状態を考えてみる。社会に入るには言語を習得する必要がある。生まれてからすぐの子は当然、言語を習得していない。つまり社会の外にいる。この子たちはおそらく世界の魑魅魍魎を見ている。直に観ている、すなわち世界を直観している。

子どもたちは世界の魑魅魍魎を観ている。魑魅魍魎は、妄想なんかではなく、存在している。ユーミンが『やさしさに包まれたなら』で、「ちいさいころは神様がいて」と歌っているが、あれは本当に小さい頃は神様がいたからそう歌っているのである。しかしそれらは檻の外にいないと観ることができない。それらは危険な存在でもあるからだ。そうした危険から身を守るためにわれわれは社会を構築したのである。

言葉を話せるようになるということと、直観能力を失うということはトレードオフの関係にあるらしい。仏教で、悟りが言語と密接に関係しているのはそういうことだと思う。つまり、悟るというのは檻の外に出るということであり、檻の外に出るということは言語を習得する前の子ども状態に戻るということであり、それはつまり自由であることなのだ。

とはいえ、何度も言うようにわれわれは檻の外では生きていけない。いろんな物語の構造が、どこかに行ってそして戻ってくるというかたちをとっているのは興味深い。村上春樹の小説なんかはその典型で、主人公は必ず、ここではないどこか奇妙な世界へ「壁抜け」して、そしてそこでなにかを達成して、こちらへ戻ってくるのである。世界中の人間が村上春樹の小説を愛読しているのも、とてもわかりやすいかたちで、われわれの「自由でありたい」という本質的な欲求を描いているからだ。

で、どうやれば自由になれるんだろう?積極的な意味での自由。どうすれば、村上春樹の描く主人公のように、あちらの世界へ行ってまた戻ってくることができるのだろう?

これについては考え中である。