ここ10日間くらいで読んだ本、漫画、観たアニメの感想

大雪で60センチくらい積もって何もできない、家から一歩も出ない日々が続いた。

家ではずっと本や漫画を読んだり、アニメを観たりして過ごした。充実した日々。まったく運動していないが、頭がパンパンに疲れたせいか毎日9時間から11時間寝ている。充実した日々。時間ができたので、学術系のわりと重めの本も読むことができた。

 

脱常識の社会学

ネットニュースで読書猿っていう人が紹介していて面白そうと思って読んだ。

社会学の存在意義は、合理性に対する異議を唱える点だと著者はいう。

私たちは合理的であることを誇りにしている。理性的であることはよいことであり、理性に従わないのは、愚か者や子どものしるしである。(中略)このように考えると、日常生活のいろいろな活動をはじめとして、仕事やビジネス、政治や行政など、私たちのすることのほとんどは、合理的な思考過程に基づいているということになろう。一連の実用的および理論的な学問分野が、これらのそれぞれの領域における合理的原理を示している。(中略)しかし社会学は、合理性に対するこのような常識的信仰に異議を唱える点で際立った存在である。社会学の中心的発見のひとつは、合理性は限られたものであり、一定の条件の下においてのみ生じるということである。それだけではない。社会そのものが、究極的には論理的思考や合理的協約に基礎をもつのではなく、非合理的な基盤の上に立っているのである。 P3

 

大学で社会学の講義を受けたとき、教員が社会学の定義は十人十色で同じ社会学者でも定義が違うと言っていた。上にある記述もまた、社会学の定義や役割の一つだが、この記述は自分にとって非常にしっくりくるもので、そのとおりだなと思う。もし、社会にあるすべての課題が合理性の追求によって解決するなら、この時代に戦争なんて起きてないし、貧困問題もとっくに解決しているはずだ。それがいまだに解決していないのは、それぞれの合理性の射程範囲が限定されているからである。つまりはもぐらたたきなのである。ある課題=もぐらをたたけば、べつの場所でもぐらが出てくるのである。だから人類は永遠に何らかの課題を抱え続けながら生きていくことになる。もっとも、人類が一番恐れているのは戦争でもなければ貧困でもない、退屈である。だから、人類は延々ともぐらたたきしていたいがために、何らかの課題を常に探しているのである。

 

日本のオカルト150年史

興味深い一冊だった。映画『リング』のモデルって実在した人物だったんだな。あと高橋和巳の『邪宗門』は大本教がモデルだったんだな。

オカルトっていったら今の時代ではもう胡散臭いもの扱いだけど、オカルトが胡散臭いものになっているのはおそらくメディアのせいだろう。この本は明治から現代までのオカルトの歴史を扱っていて、これを読んでいると、オカルトに対する人々のイメージはその時代のメディアがオカルトをどう描くかで決まってしまうように思えた。

超常現象、科学では説明ができない現象について、それが現代の科学の範疇では説明できないだけで時代がすすめば説明できるものなのか、本当の意味で科学を超越しているのかはわからない。でも、上の社会学の本と合わせて考えるなら、超常現象は、われわれの科学=合理性とは別の合理性のもとで説明しうる現象といえるのかもしれない。千里眼とか宇宙人など、今のわれわれが採用している合理性では説明できないものが、別の合理性のもとではスムーズに説明できるかもしれない。多くの科学者がオカルトを否定するのは、自分のやっている科学=合理性では説明できないからであって、まったく別の合理性では説明できる。これを書いていて、呪術師ドン・ファンの教えを思い出した。ドン・ファンと彼を訪れた若き人類学者は話がまったくかみあわないのだが、それはつまりそれぞれが採用している合理性が一致していないからだ。ドン・ファンは空を飛べるし、べつの箇所にいる人間が今何をしているか透視できる。それを若き人類学者はまったく理解できない。ドン・ファンはオカルトの側にいる人間で、若き人類学者は科学の側にいる人間。それはちょうどオカルトを胡散臭いと思っているわれわれと同じ対比である。

 

お金に頼らず生きたい君へ

図書館で借りた。児童図書のカウンターで借りた。対象が小学生か中学生だったようだ。しかし大人でも十分に読む価値がある。著者の服部文祥という人は登山家で、最近廃村のある古民家を購入して、そこでなるべくシステムに頼らず生活するという試みをしている。その模様を描いたのがこの本。

われわれは生まれたときからすでにシステムが構築された空間に生きている。最先端のシステム、常にバージョンアップされたシステムが整った空間に生を受けたわたしたち。便利的なことはよいことだと洗脳されたわたしたち。

他の登山家である角幡唯介や『ファイトクラブ』のブラッドピット演じるタイラーダーデンも言っているが、高度に合理的なシステムはわれわれの肉体的な諸能力を圧倒的に衰弱させシステムの家畜にしてしまうのだ。だからわれわれはある意味において人類史上もっとも不幸である。なぜなら自らの身体に宿る圧倒的な能力に気づくことも、掘り起こすこともしないままに死んでいくのだから。

お金に頼らないということは自らの可能性を知る旅であり、そうした旅にでることはもちろん危険ではあるが、同時にシステムの家畜から脱却する自由を得る契機でもある。

この本がいいのは、どうやって廃村を探したり古民家を手に入れたかを苦労とともに描いている点である。そして、古民家にどうやって電気や水を通したか、食料の調達のしかたも書いてある。そしてそのいちいちにどれくらいのお金がかかったかも書いている。お金に頼らない生き方とはいうが、お金はけっこうかかるようだ。

 

あいだと生命

精神病理学者である木村敏の論文集。ほかにも何冊か木村の本を読む。このまえ同じ精神病理学者の中井久夫NHKの「100分で名著」で扱われていて、それで木村敏を思い出した。数年前に集中して木村敏の本を読みこんだ時期があって、今回もいくつか読み返した。いいものはやっぱりいい。

あいだ、ってのがいい。日本人は、あいだに対する感度はかなり高いと思う。ハイコンテクストの文化が根付く国。俳句とか川柳は、むしろ書かれていないところから味がしみだしてくる。あいだが抜けている人間は、間抜けだとしてバカにされる。漫才とかコントでも、あいだをうまく利用する芸人が笑いをとる。観ている側もそのあいだを理解できるから、笑えるのだ。

ラカンだったっけ、クッションの綴じ目がどうたらとか言っていた人は。最近、世界の構造についてよく考える。人間にしろ、他の動植物やモノにしろ、物質が寄せ集まってできている。その集まったもの対して人間は名を与える。クッションの綴じ目というのはつまり名のことで、でもそれらは周りから集まってきたもので、あいだから生成されたものだ。あいだは、俳句や川柳の行間と同じで何も見えないし無存在だが、名はあいだから寄せ集められたもので、あいだがなければ名は存在しない。これはルビンの壺を想起すればイメージがわきやすい。壺は実はそのまわりの向かい合う人間によって生成されているし、向かいあう人間のあいだに生まれる。だが、その壺に意識を映した瞬間、向かいあう人間は見えないし無存在になる。こういうアイデアは仏教や量子力学と非常に相性がいい。老子も同じようなことを言っていたような気がする。

 

テスカトリポカ

佐藤究、すげぇ!!!500ページを超える重厚の小説。面白かったので一気読みした。

こういう社会の裏側で暗躍する組織や人間の話はとても面白い。南米のカルテルってこんな残酷なことやるのだろうか。日本のやくざとはくらべものにならんな。単に殺すだけなく、バラバラにして対立組織に送り付ける。小説では、バルミロというメキシコの麻薬カルテルのトップにいた人間が、カルテルうしの抗争に敗れ、流れ流れて日本にやってくる。復讐を誓って資金を稼ぐため日本で再び暴力組織を築く。日本でやるビジネスは麻薬ではなく、日本人の子供の心臓移植ビジネス。異国で出会った日本人闇医師の末永とタッグを組み、中国や東南アジアの裏組織と心臓移植ビジネスを企てる。

表と違って裏の社会は何でもしほうだいだから、よりグローバルになっていくのだろうか。現実社会はどうなんだろうな。実際、メキシコのカルテルと日本のやくざが抗争したりとか、イタリアのマフィアが中国の裏組織とかちあったりとかあるんだろうか。

にしても、著者の佐藤究はすごい。裏社会のことを知らないから何ともいえないが、とてもリアルに感じた。なんでこんなにメキシコや中国、東南アジアの裏組織を詳細に描けるのだろうと思いながら読んでいた。参考文献が巻末に載っているが、それを読んだだけでこれだけ綿密に描けるものなのだろうか。

 

ガン二バル

 

閉鎖的な村の駐在所に赴任した大悟。前任の狩野は山の中で惨殺された死体となって発見された。狩野は「この村では人が食われている」と言っていた。村に君臨する後藤家、表面上はやさしいが何かを隠している村人たち。謎だらけの村社会の話。

人を人が喰うというのはそれだけで不気味で恐怖する。根源的な恐怖。漫画でも出てくるが、パプアニューギニアのフォレ族では食人が風習としてあったらしい。とはいえ、これは死体を食べる習慣だったようだ。あとは、人をさらって食べる盗賊が海外にいたらしい。それは洞窟に住んでいて、近辺に現れた人たちをさらって食べる家族だったか、盗賊。

カニバリズムも怖いが、この漫画で描かれる村社会の閉鎖性のほうがもっと恐ろしく感じる。大悟たち家族は常に誰かに視られているように感じていた。村の外に出たら何をしていたのか問われる。不気味。

そういえば最近ネットニュースにもなっていたが、都会から四国の限界集落に地域おこし協力隊で移住した家族が限界になって移住したという記事を読んだ。その人はyoutubeもやっていてその動画を観たが、移住の決め手となったのは火事だったようだ。受け入れ先の地域団体とそりが合わず、そのせいで嫌がらせをされたり、あることないこといろいろうわさされ、最後に火事。住んでいたアパートの二階部が火事になり、一階に住んでいた家族の部屋は消化活動で水浸しになっていた。放火なのかはわからない。その地域では、地域おこし協力隊で移住してくる赴任者が何人も、受け入れする地域団体とそりが合わず離れていったらしい。まぁこういう事実があると、移住してくる側ではなく受け入れ地域のほうに問題があると思ってしまうよね。

ガン二バルでもそうだが、閉鎖的な村やそれに類する田舎は若い女性を奴隷のように扱う。葬儀や飲みの席では、若い女性は給仕係をさせられ男は飲み食いに興じる。まぁこういうのが色濃く残っている地域は廃れていくわな。行政は、仕事がないから若者は都会に出たまま帰ってこないと言うが、それは原因の一つではあっても本質ではない。自分が大切にされていないと感じさせる場所には、どんなに仕事があっても帰ってきたくはない。その行政や政治は、大部分がじじいで構成されているからもはやどうしようもない。

 

進撃の巨人

3月からNHKでファイナルシーズンをやるので見直している。漫画は全部読んで、アニメも最新話まで観ている。ちょうどギャオで無料でアニメをシーズン2までやっているので、それで一から観ている。ジョジョストーンオーシャンも観たかったのでネットフリックス契約しようかなと思っているが、ギャオでたぶん進撃が最新話まで観ることができそうなので躊躇している。

やっぱりね、作者の諌山さんはすごいね。フランスの漫画祭で特別賞を受賞していたのがニュースになっていた。『進撃の巨人』はもちろんそれだけの価値はある作品。

ストーリーを全部知っているなかで観ても面白い。あぁ、これ伏線だったんだなぁとか、一回目とは違う観方ができる。ライナーめっちゃ焦ってるやん。

最後、エレンがあんなことになっちゃったけど、1話から見直しているとエレンがあんなことになっていったのは仕方ないと思う。仲間を信じ自分の選択を放棄した結果、仲間がどんどん死んでいったわけで、仲間を助けるには自分の選択をするしかなかったのだ。ミカサはエレンに「この世界は残酷なの」と言い、アルミンは「人間性を放棄しないと人類を救うことはできない」と言った。そして実際に、人間性を放棄し自分が敵を駆逐しないと仲間は救えないわけで、エレンの顔はどんどん人間性がなくなっていき恐ろしくなっていってしまった。ファイナルシーズンのエレンの顔と、シーズン1や2のエレンの顔、全然違うから見返していてびっくりした。人間は、変わってしまうものなんだな。エレンは最初もっとも人間的というか純粋だったのに、最後はもっとも非人間的だった。しかしそれはエレンが巨人になれたからだ。それがミカサやアルミンと違う点だが、エレンだってそうした運命にあっただけで自ら巨人になれる道を選択したわけじゃない。ライナーの故郷で、エレンがライナーに語ったように、仕方がなかったのだ。どうしようもなかったのだ。

 

こうして振り返ってみると、自分の興味がどこに向いているのか把握できて面白い。

けっこうヤバめのジャンルに偏っていることがわかる。