読んだ本の感想

自分は、友達を必要としていないし、人が集まるところには行きたくない内向的で静かな人間で、でも社会は外向型の人間を求めているから生きづらい。ということで、内向型人間を励ましてくれそうな本書を読んでみた。著者自身も内向型の人間で、期待どおり内向型を励ましてくれる一冊となっている。

内向型と外向型は、脳の作用からして違うというのはなかなか驚いた。脳内の血流が内向型のほうが多くなるらしく、思慮深く物事を考えられるという。落ち着いていて、じっくり物事を考え、人の話に耳を傾けることのできる内向型は、実はリーダーとしての素質がある。なぜなら、部下の意見に耳を傾け、持ち前の思慮深さで利害関係を調節し、成果を出すことができるからだ。

著者は、SNS疲れなど、外向的であることに疲れる人が増えている昨今、これからは内向型の人が活躍する時代が訪れると述べている。

とまあ、本書は内向型の素晴らしさを科学的な視点から述べてくれ、それはそれで嬉しいし、内向型が生きやすい社会に今後なっていくかもしれないなぁと思ったわけだが、資本主義システムが内向型をもてはやし始めて、企業が内向型をリーダーに据えたり、積極的に表に出そうとする動きがで始めたら、それはそれで面倒くさいなと危惧した。内向型は、少なくとも自分は、そういう事態を全力で避けるし、何より注目を浴びるのが大嫌いなのだ。ひねくれている自分は、資本主義システムはこうした内向型を、自らをさらに止揚させるための養分にするのではないかと憂慮している。

 

はてなブログもやっている著者の一冊。

著者のブログもたまに読んでいる。ブログや本書も含めてかなり大ざっぱにまとめると、彼は合理化による不合理性を描いている。本書も、キレイになっていく都市や人間が、そのキレイになっていく過程のなかで失ってしまったものを扱っている。

汚いよりはキレイなほうがいいし、臭いよりはいい匂いのほうがいいし、不健康よりは健康なほうがいい。誰もこれを否定できないからこそ、すべてが一方の価値に向かって突き進んでいく。そうすることでなにが起こるかというと、奇妙なことに、生きづらい社会になっていくのだ。よい方向に向かっているはずなのに、なぜか息苦しくなるという矛盾。

接客の仕事をした経験のある人ならみな共感すると思うが、クレーマーの大半は中年以上の男性であり、残りは中年以上の女性だ。つまり、クレーマーは全員中年以上で、怒鳴り散らして不快にさせる若い客はいない。少なくとも自分は、若い客に横柄な態度をとられたことはない。それどころか、みな丁寧な言葉遣いをしてくれる。それはやっぱり、著者が言うように、社会が健康的で清潔で、道徳的な秩序あるものになってきたからだと思う。そこから取り残された者が「老害」と呼ばれているのだ。

しかし、こうした老害がたくさんいる社会のほうが、合法と違法のグレーゾーンが押し拡げられ生きやすい社会ともいえる。人間は誰しもだらしない部分を抱えているから、グレーゾーンが広いほうが気楽に生きられる。また、だらしない人間を見ることで、あんな人にはなりたくないと思いつつも、下には下がいる、ああいう人間でも生きているんだから自分は大丈夫だと思える。

社会が清潔になっていくことはいいことだ。しかし、そうした物腰の柔らかい、丁寧で清潔な人間が増えていくと、それが社会が人間に求めるデフォルトになり、求める人間の水準が高くなれば、その水準に合わせる努力も大変になる。もちろん、その水準に届かない者も増えていくわけで、そこが息苦しさや生きづらさにつながってくるのだ。ホームレスの排除や歌舞伎町の浄化というのは、社会のグレーゾーンを狭めていく行為であり、それは一見まともな人にはなんの関係もないように見えて、実は見えない生きづらさをすべての人間に感じさせるものとなる。

老害」という言葉は比較的最近の言葉だと思うが、おそらく昔は今の基準でいう老害だらけでそれがデフォルトだったから、老害という言葉が存在しなかったのだ。しかし、社会が清潔で道徳的なものになっていくなかで、飲酒運転や禁止されている区域での喫煙をしたり、ちょっとしたことで怒鳴ったりする人間が「老害」認定され、社会からあぶり出されるようになった。

著者は、こうした合理化の過程で生まれた非合理性、そしてこの合理化を資本主義が徹底して推し進めていくことに対して、これでいいのかと問いかけている。自分も、著者の立場に同意する者だが、これが難しいと感じるのは、結局これはもぐら叩きにすぎないと思っているからだ。ある問題を叩けば、べつのところから問題が頭を出すのはどうしょうもない。今の社会は行き過ぎだと思うけれども、行き過ぎと感じるレベルは個々によって違うわけで、ちょうどいいところなんて存在するのだろうか。分からない。自分は著者と違って、諦めている。

 

撤退という言葉は、逃げるつまりネガティブな語感がある。その論とは何だろうなと思って読んでみた。

内田樹の問題意識は、ずっと自分が感じていることでもあった。

…国力が衰微し、手持ちの国民資源が目減りしてきている現在において、「撤退」は喫緊の論件のはずであるにもかかわらず、多くの人々はこれを論じることを忌避しているように見えるからです。P6

本当にそのとおりだと思う。

これは国家レベルだけではなくて、地方自治体レベルでも同じで、自分の住んでいる町も、人口がどんどん減ってきているのに、ほとんど車が通らないバイパス道路を延伸し、たくさんの税金を使って美術館を作っている。考え方が昔と変わらないのだ。行政にしろなんにしろ、資源が減っているのに、さらに人をよんで拡大しよう、お金を稼ごうという考えのもとで行動している。

今考えるべきは、将来の痛みをいかに最小に抑えるかという撤退のあり方であって、どうしたらさらに前進できるかではない。もちろん税金の配分の問題や、建設会社を倒産させないために、新しく道路を作るのだろうが、将来そういったインフラをどうやって維持するつもりなのだろうか。企業は資本主義システムのなかに取り込まれている以上ひたすら前進せざるを得ないが、行政は企業とは違うのだから、どのように撤退すれば将来受けるコストやダメージを最小にできるかという視点をもたないといけないと思う。

能登地震で、半島の多くの道路が破壊されてしまった。たしか立憲民主の議員だかが、インフラ維持のコストを考えると、過疎地域のインフラを復旧すべきか放棄すべきか考えるべき時が来ているみたいなツイートをしていたと思うが、こうしたことの是非を議員や住民がもっとしないといけないと思う。

内田は、里山消滅のリスクや人間の分散された社会の豊穣性について述べていて、自分もそれは認めるが、そうした豊穣性とインフラ維持のコストを天秤にかける時が来ていると思う。個人的にはすべての道路を直すのはもうやめたほうがいいと思っているし、過疎地域のインフラ復旧もすべてを税金で賄うのは辞めるべきだと思っている。内田はこれについてどう考えているのだろう。

このまま拡大前進を続けると将来大ダメージを受けるのは確実である。これも少子化対策と同じように、分かっていてもみんな考えないようにしているのだろうか。

 

ちょっと気になっているギフトエコノミーについて知りたくて読んだ。

カルマキッチンというギフトエコノミーを実践するレストランの話がのっていた。料理には値段がついておらず、おかれた封筒の中に任意のお金を入れて渡すのだという。全くお金を払わなくてもいいが、実際はそんな人はいないらしい。なぜギフトかというと、自分の食べた料理の代金は、前のお客がすでに払ってくれているという考えだかららしい。そして、自分が払った分は、次のお客の食べる料理の代金となるという考え方。

たしかに、これもギフトといえばギフトなんだろうが、自分が気になったのはお金じゃないといけないのだろうかということ。

ギフトエコノミーが資本主義に対抗するものであるとしたら、たとえば農家なら米や野菜をお金のかわりに払うとかでもいいのだろうか、そういうやりとりをしているお店とかサービスはあるのだろうか。

「営業」という概念が気になっている。なにかのサービスを提供して、お金を受け取るというのが営業だと思う。そこにはお金のやりとりが発生し、税金を払わないといけない。

しかし、お金のかわりに米や野菜を受け取った場合、それも営業になるのだろうか。110万以上の価値のあるものを受け取ったら贈与税が発生するというのは読んだことがあるけど、何かのサービスを提供して受け取ったものの合計が110万以下なら大丈夫なのか。

田舎ではよく、道路の隅に野菜を置いた無人販売所があり、あれは野菜をもらうかわりにお金を置くシステムだが、それがお金ではなくて、べつの野菜だとか本だとか楽器なら、そこは販売所というよりは交換所であり、お金のやりとりが発生していない。販売所なら営業になるが、交換所でも営業になるのだろうか。カルマキッチンよりもこうしたシステムのほうが、ギフトエコノミーといえると思うし、資本主義に対抗するシステムであるといえそう。ほんの小さな抵抗だけど。

自分も、そうしたほんの小さな抵抗システムを作ってみたいなと考えている。べつに資本主義が嫌いなわけではなくて、ひねくれているだけなんだけど。