真実はいつも一つ?熊野以素『九州大学生体解剖事件』感想

戦時中、アメリカの捕虜8人が九州大学医学部に運ばれる。九大医学部陣は、手術と称して実験解剖し殺害。著者の伯父鳥巣も実験に関わったとして裁判で死刑判決を受ける。鳥巣の妻蕗子は夫を救うために奔走し減刑を勝ち取る。そこまでのいきさつを描いた一冊。

 

捕虜は軍によって運ばれ、九大医学部陣によって実験手術され殺害される。

実験は計4回行われ、そのうち2回に鳥巣助教授は携わる。初回は実験だと知らずに参加する。2回目はやめるように上司に進言するが、聞き入れられず実験の手伝いをするように強制され参加。3、4回目は不参加。その後、戦犯の裁判がアメリカ主導で行われる。鳥巣は実験手術の首謀者の一人として死刑が宣告される。

裁判では、鳥巣が実験をやめるよう進言した事実はかき消され、実験の首謀者の一人として殺害を先導したことになっていた。取り調べで鳥巣は、自分が先導してやったことになっている、これは事実とは違うと不服を申し立てたが、鳥巣の不利になるような証言が次々になされる。鳥巣は最初、自分は実験をやめるよう進言したのだから重い刑が下るはずがないと思っていた。しかし死刑宣告を受ける。とはいえ、本来患者の命を救うはずの医師が、手術という名目で摘出する必要のない臓器を取り出し殺害する実験に加担した、自分は自身の大学での立場が危うくなっていたとしても身を挺して止めないといけなかったのにそれをしなかったとして死刑を受け入れる心境に達する。

一方、鳥巣の妻蕗子は、裁判で語られる内容が、夫の話していたことと違うと憤りを覚える。夫に会いに行くも夫はすでに死刑を受容している。弁護士に会いに行くも、彼らが作り上げていたストーリーは夫の証言とそぐあわないとして妻の話を聞き入れない。

弁護士の作り上げたストーリー、それは鳥巣をスケープゴートにしてその他の医学部陣を守るというものだった。鳥巣の上司である教授陣や軍の医師たちは、死去していたり自殺していたりですでにこの世にいなかった。存命の鳥巣が最高責任者ということで、弁護士たちは鳥巣のみに責任をかぶせることにしたのだ。教授に実験をやめるよう進言したのは鳥巣助教授のみだった。この事実が明るみになると、他の部下は教授に進言しなかったとして印象が悪くなる。だから鳥巣の進言はなかったことにされた。そして、裁判では鳥巣は助教授ではなくて教授だったということにされた。これにより、鳥巣は実験を主導する責任ある立場だったということにされた。

妻蕗子は裁判の見直しをするよう、必死に証言をかき集めた。尽力の結果、鳥巣は減刑され死刑を免れることができた。

 

感想

誰かを説得し納得させるためには、ストーリーというものが必要で、そのストーリーに不都合な事実は隠ぺいされる。これはこの九大の生体解剖実験の裁判だけではなく、日常会話から歴史に至るまでのすべてで行われていることだと思う。

弁護士たちも、鳥巣一人を犠牲にすることで他の人間の命を救うという、思考実験でよくあるトロッコ問題をやったのだ。トロッコ問題を解くにあたって、鳥巣の実験をやめるよう進言した事実は非常に都合が悪かった。だからその事実はなかったことにした。弁護士だって鳥巣のことを憎んでいたわけではない。多くの命を救うための最善のストーリーが鳥巣を身代わりにすることだったのだ。鳥巣の上司がいない以上、鳥巣に最高責任者として罪をなすりつけることは容易である。だが、家族はそれで納得するはずがない。だから妻蕗子はお金がなくても、他の医師陣からの反感を買ってでも、裁判がやり直しになるよう奔走したのだ。

著者によって、この事件の真実がこうして明らかにされ本にされたことは非常に意義があると思う。われわれは、どこどこのメディアは偏った報道をしているとか、あの人の言ってることは真実じゃないよとか、そういった類のことをよく聞く。でも、さきに書いたように誰かにむけて何かを発するとき、それは常に、事実ではなくて、ストーリーのかたちをとっているわけで、真実はいつも一つではないのだ。仮に鳥巣の妻蕗子が減免にむけて動いていなければ、鳥巣は実験の主導者として死刑になり、それが真実となっていたわけで、われわれが知っている、他人から歴史のあらゆることは実は真実ではないのかもしれない、あるいはある一面しか見ていない。殺人事件を起こした人間について、近所の人や同級生が「あんなことをするような人には見えなかった」という言葉が、それをよく表している。

人に裏切られるというのは間違いで、その人の別の側面が見えただけ、自分の期待していた部分と違った部分が見えたからって裏切られたと思うのはちょっと違うんじゃないか的なことを芦田愛菜ちゃんがどっかで話していたと思うが、それは人だけでなくあらゆることにあてはまるように思う。事実にしても、人にしてもさまざまな様相を帯びていて、そういえば篠田麻里子と夫のもめごとでも、印象が二転三転しているのはあとからあとからいろんな情報が出てくるからだ。結局、どこで線引きするかで、真実がきまってしまうというのは興味深い。