中動態の世界について 能動/受動の向こう側へ

 以前から読みたかった本だが、なかなか手を付けられなかった本。ようやく「よし、読もう!」という気になり手に取った。

 

 

 難しかったが、読み応えのある一冊だった。

 この本を軸にいろいろと思考できて有意義だった。

 

 ぼくたちは普段、「私は歩く」というような能動態、「私は殴られる」というような受動態によって物事を説明する。能動態と受動態、この二つですべてを表現する。

 でも、僕自身もそうだが、その二つでは説明できないような経験をすると、どのようにして表現したらいいのか戸惑ってしまう。

 

 僕は卒論を書いているとき、不思議な体験をした。

 一言でいえば、自動筆記状態になった。そのときの僕は、僕自身の意識は脇にどいていて、何か別の意識が僕の身体を借りて書いているような、そんな状態に置かれていた。自分の頭で考えて言葉を紡いでいるのではなく、こんこんと湧き出る言葉が自分からあふれているような感じだった。

 外側から、客観的に表現すれば、「僕は卒論を書く」という能動の表現になる。しかし、これは感覚的におかしい。今、こうしてブログを書いているときの僕は、感覚としては、自分の頭で考えて書いている感じがする。だから、「僕はブログを書く」という能動の表現は、おかしいとは感じない。一方、卒論を書いているときの僕は、今ブログを書いているときの僕とは、感覚が明らかに違った。「僕は卒論を書かされる」という受動の表現のほうがしっくりくる。

 このようにして僕は、能動とも受動ともつかない引き裂かれた体験をしたことで、言語の不自由さを感じていた。あの不思議な体験は、言葉にしたらどのようになるのだろうとずっと思っていた。

 ある日、本屋で『中動態の世界』を見つけ、パラパラと中をめくっていると、「あぁ、これは自分の不思議な体験を説明してくれるかもしれない」と思った。そして実際にそうだった。

 

 中動態は一言でいえば、出来事を描写する態のことである。これは出来事を描写するだけで、行為者は問題にならない。一方、能動態/受動態は行為者を確定させる態である。

 古代で広く使われていた言語は中動態も一般的で、そこに能動態と受動態の対立はなかった。しかし、時代が進むにつれて、中動態は失われ、能動態と受動態の対立で物事が表現されるようになった。

 

 本を読みながら、中動態が失われていったのは、裁くことができないからではないかと思った。というのも、中動態は行為者が問題にならないからだ。

 能動態/受動態であれば、「私は人を殺した」とか「私は物を盗まれた」というように、行為する者される者が確定する。行為者が明らかになるということは、意志と責任が問われることになる。つまり、裁くことが可能になる。

 裁判では意志や責任が問題にされる。この前の植松の件でも、検察側は十分に責任を問える犯行で死刑だと主張したのに対し、弁護側は大麻を使っており正常ではなかったので責任を問えない、だから無罪だと主張した。

 

 中動態は状況や状態を説明し、意志や責任の有無を問題にしないので、裁くことができない。

 だから、もし世界が中動態で語られるなら、社会が大きくなりようがないことになる。社会が大きくなると、当然見知らぬ人どうしがつながっていくわけだけど、知らないのだから信頼できるか分からない。そんな状況であれば、争いが起きるわけだけど、そこでは誰が悪いとか、誰は悪くないといった裁判が必要になる。もし裁判がなければ争いは絶えず、大きな社会は維持できないだろう。

 大きな社会、つまり国家にとって中動態の存在はやっかいなものだったのではないか。もし、中動態を国の政策で削除していたなんてことがあったとすれば、もうそれはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界だよなぁなんてことも思った。

 

 このようなことを考えていると、言語の世界は非常に奥深く面白いものだということに気付いた。そういうことに気付かせてくれたこの一冊に感謝だし、著者の國分さんはいつも興味深い本を書くなぁと思った。