どちらがいいのか…

今日の新聞に、元京大総長でゴリラ研究者の山極さんのコラムが載っていた。

アフリカでフィールドワークしたときの話が載っていて、山極さんがフィールドワークする際に迷子にならないようガイドを雇ったという内容。日本でも山や森でフィールドワークしていたから迷子にならない自信はあったが、アフリカの森はそれが通用しないほど複雑だから雇ったという。

ガイドは自然の知識が豊富で、象などの大型の動物が通った後を進んだり、ここは毒を持つ生物がいるから避ける、あそこは人間に危害を加える動物がいるから迂回するなど、山極さんには見えないものを見ていた。そして、的確にガイドしてくれた。

翻って、山極さんがこの前沖縄に行ったとき、GPSをもとに目的地に向かったそうだが、自分が今どこにいるか分からなかった、紙の地図を見ないとだめだったらしい。便利になることと引き換えに、失ったものがあるというのがコラムの要点である。

 

これはトレードオフの問題である。便利さというのは、人間の生存の可能性を飛躍的に高めるものであるからこそ追求されている。アフリカは便利じゃないから、人間それぞれが自然を学び、自分の身体的直感に従って、ここは安全であそこは危険と判断している。便利になれば、そういう知識は衰えていく。

で、その便利さは当然タダではない。その便利さを享受するには、対価としてお金を払わないといけない。そのために労働をする必要がある。

そして、いったん便利さが一般化すると、それがデフォルトになってしまうので、放棄するのが困難になる。

知っている人間に、家賃をずっと滞納している奴がいる。妻も子どももいるのに、周りとコミュニケーションを取ろうとせず、自宅をゴミだらけにし、大家に追い出されかけている。しかしその一方で、スマホ関連で毎月五万円も出費しているらしい。つまり、まともな生き方が全くできていないわけだが、よくよく考えてみれば、これがたとえば30年くらい前であれば、スマホはなかったし、ケータイも一般的なものではなかったから、毎月五万円も出費するという事態はなかったのだ。ケータイが普及し、スマホが生活の深くに食い込んだことで、以前はなかった支出項目が新たに増えた。スマホに関わるめんどくさいこと、料金体系とかSNSの問題とか、を知っておかないといけなくなった。

日本人の貧しさが最近よくクローズアップされている。でも、たとえばスマホや車、エアコンや電子レンジなどの家電、そういった便利なものをすべて放棄すれば、支出するものはなくなり貧しさは解消されるだろう。しかし今度は、まともに生活していけなくなるだろう。日本の便利さの標準が、アフリカのような何も無いところよりもはるかに高いところに設定されているがために起こる問題である。

私たちにはもう、アフリカの人のような身体に宿る自然の豊富な知識はない。そして、不便を享受する身体的、精神的寛容さもない。便利さを享受「しなければならない」し、そのために労働「しなければならない」。

もちろん、アフリカのように、栄養失調で飢え死にするとか、大した事ない病気で簡単に死ぬ、みたいなことがないわけだけど。

どちらがいいのかね…