西田幾多郎の哲学を4次元空間をつかって解釈する

福岡伸一と池田善昭の『福岡伸一、西田哲学を読む』を読み終わった。

 

この本は、『生物と無生物のあいだ』で有名な生物学者福岡伸一が西田哲学の研究者である池田善昭の助けを借りながら西田幾多郎の哲学を生物学の視点から読み解いていくという内容である。福岡伸一の提唱した動的平衡という生命の定義が西田幾多郎の哲学と通底していると感激した池田。福岡は西田の哲学の難解さに苦戦しながらも池田の解説を足掛かりに生物学と西田哲学の融合を試みる。

 

動的平衡とは流れである。

鴨長明の『方丈記』の冒頭、「ゆく川の流れは絶えずしてまたもとの水にあらず」が動的平衡を端的に表現する。川それ自体は変わらないけれども、その川を流れる水は常に流れ一瞬として同じではない。生物もまた、見た目が変わっていなくともそれを構成する細胞は常に破壊され同時に創造されている。この動的なプロセスそのものが生命なのだ。生命は破壊と創造という矛盾を同時に抱えているといえる。西田哲学もまたその用語は常に矛盾を体現している。絶対矛盾的自己同一、逆限定、一即多、多即一など。西田の考える生命もまた、矛盾を内包した実在なのである。

 

西田哲学はどうしても用語が難解であるがゆえに読解が非常に困難である。西田と通底した生物哲学を持っている福岡でさえ悪戦苦闘する。

話が少しそれるが、この前『「勤労青年」の教養文化史』という本を読んだ。

本屋で見つけたこの本の帯に写真が載っていて、建物の周りに人々が寝ている光景が写っているのだが、自分は最初乞食の写真かなと思った。でも、それは西田幾多郎の本を求めて本屋の前で一夜を明かす青年たちの写真だった。1947年の頃の写真で、戦後の物資も何もない激動の時代に、青年たちが求めていたのがこの難解な哲学書だったという事実に驚かされる。今の青年で西田幾多郎を知っている人なんているのだろうか?もしかしたら京都大学の学生ですら知らないんじゃないか。巷では教養ブームが巻き起こっているらしいが、西田の哲学書は読まれているのだろうか。教養ブームとかいいながらその実読まれているのは薄っぺらい自己啓発本ではないのだろうか。

 

西田は禅に傾倒していたから、用語が矛盾を孕んだものになるのだろうか。いやそうではない。自然、ピュシスがそもそもロゴスの観点から見れば矛盾を孕んでいるのだ。ロゴスは矛盾してはいけないので、どうしてもピュシスを矛盾のないように説明しようとする。それゆえに、ロゴスは常に真理から逸脱したものになる。プラトン以来の哲学はロゴスに立脚したものであったがゆえにピュシスを常に誤ったかたちでとらえてきた。プラトン以前の哲学者であるヘラクレイトスは、ピュシスは常に隠れていると述べた。20世紀最大の哲学者であるハイデガーは存在は常に隠されていると述べた。本来の哲学とは、隠されたものを明るみに出すプロセスをいう。そうした意味で、西田はプラトン以降の伝統哲学とはべつのやりかたで哲学を行ってきたと池田はいう。西田はその隠されたピュシスを正確にとらえようとしていたのだ。だからこそ、ロゴスの観点から観て矛盾している用語を西田は繰り出すのだ。

 

西田によれば、生命と環境は「包まれつつ包む」関係にあるという。

生命はまわりの環境に包まれている。と同時に、生命はまわりの環境を包んでいるという。前者は分かりやすい。しかし、後者は分かりづらい。生命がまわりの環境を包む、なぜ小さい生命が大きな環境を包んでいるのか?福岡はこれが理解できずに苦しむ。池田は年輪をたとえにだす。環境は木にさまざまな影響を与える。暑さや寒さ、雨や雪など。それが年輪に反映される。これが環境が年輪を包んでいる状態。同時に、年輪は環境に影響を与える。年輪が環境を包んでいる、これを福岡はよく理解できない。年輪が環境に何がしかの影響を与えているようには見えないからだ。池田は「時間」という観点を通して福岡に説明する。年輪というのは時間の流れを示している。時間の移ろい、環境の変化を年輪は示している。年輪という模様がその環境を表現しているのだ。これが年輪が環境を包んでいるということ、そう池田は福岡に説明する。福岡はやっと理解する。

 

個人的には、まぁ言わんとしていることは分かるが、それでもやっぱり難しいなぁと

思う。自分は「包まれつつ包む」というのを以下のように考えた。

まず、生命というのは4次元なのだ。空間的な意味で4次元。われわれは3次元空間に存在していると思っているが、生命は4次元空間の存在である。その4次元存在が3次元空間に姿を現していると考える。それがわれわれが見ている自分自身である。

4次元の超立方体を3次元に射影すると以下のかたちになる。

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https://www.moguravr.com/tesseract/

4次元の超立方体を3次元に射影すると、上のような、小さな立方体を内部に抱えた立方体になる。4次元の超立方体は展開すると8つの立方体になる。しかし、上の図のように3次元で表現しようとすると、7個しか描けない(真ん中の小さい立方体のまわりに6つの立方体がくっついて計7つ)。では残りの一つはどこかというと、この大きな立方体の外側に裏返した状態でくっついているのだ。なかなかイメージが難しいが、残りの一つは外側の大きな立方体のまわりということになる。

 

次元を一つ下げても同じことがいえる。

3次元のサイコロを2次元に押しつぶしたかたちで描くと以下の図になる。

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サイコロは6つの正方形からできている。それを2次元に押しつぶしたかたちで表現しようとすると、上のように5つしか描けない。では残りの一つはどこにあるかというと、これもまた同じで、外側の大きな正方形の外側に裏返したかたちでくっついている。これもまたイメージが難しいが、4次元の超立方体よりは分かりやすいかと思う。

 

4次元の超立方体に戻ろう。

仮に生命が4次元の超立方体のようなかたちをしているとして、それを3次元に射影すると上の図のように、内部に小さな立方体を抱えた立方体になる。で、その外側に裏返した立方体がくっついている。

さてここで西田のいう生命と環境の「包まれつつ包む」関係を考えてみよう。

内部に小さな立方体を抱えた立方体が3次元に射影された生命なわけだが、その外側が環境であり、上の図を見れば分かる通り、環境が生命を包んでいる。しかし、その外側とは何かというと、外側も生命の一部なのだ。外側とは何かというと、立方体を裏返したものだった。環境もまた生命の一部、つまり生命も環境を包んでいるのである。

 

西田の生命論には次のような言葉が出てくる。

外に出ることは内に入ることであり、内に入ることは外に出ることである

福岡はこのことを生物学の視点から解釈する。

福岡 細胞の中から(細胞内部で作られたタンパク質が)外に出る時には、実はいっ

   たん細胞の中に入らないと外に出られないんですよね。

池田 うん、うん。

福岡 「内に入ることは外に出ることである」というのは、まさに、細胞の中に入る

   ということは、細胞の外にある状態とトポロジー的にイコールである、と読み

   替え可能です。わかりやすく言うと、細胞の中の中に入るということは外、つ

   まり細胞の外に出るということと同じだということなのですが、(以下略)

                                       P175

 

3次元に射影された超立方体を見ると、大きな立方体のなかに小さな立方体を抱えている。この小さな立方体の状態は「中の中」にあたる。そして、すでに説明したように、この小さな立方体は、大きな立方体の外側に貼り付いている立方体と同じものである。つまり、「中の中」と「外」は同じである。これが福岡のいうところの、細胞の中に入るということは、細胞の外にある状態とトポロジー的にイコールであるということである。これをアニメーションで表現したものが以下の図である。

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西田は時間に対しても、とても難しい説明を施している。

過去は、現在において過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らないものであり、未来は、未だ来たらざるものであるが現在において既に現れているものであり、「現在」の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、「時」というものが成立するのである。

まぁなにを言ってるのかちょっと分からないよな。

でもこれも次元を使って説明すると理解できるのである。

 

matsudama.hatenablog.com

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詳しくは上の記事で説明したが、3次元の球が2次元世界を通過するときさまざまな大きさをもった円として現われる。『フラットランド』という物語でこの過程が描かれていて、球はフラットランドという2次元平面を上下してやりながら、球はさまざまな大きさを持った円の集合であることをフラットランドの住人に教えてやる。これが西田の時間論を理解する手がかりになる。

 

3次元の球は2次元の円の無限の集合である。球がフラットランドの上から接しているとき球はフラットランドに直径0の円、つまり点として存在している。そこから球が下に行くにつれて少しずつ円が大きくなる。半分に達したとき最大の大きさを持った円になる。今度はそこから少しずつ円が小さくなっていき最後球がフラットランドの下に抜けるとき再び直径0の点になってその後消える。

 

これを説明したものがリサ・ランドールの『異次元は存在する』にあったので掲載しておく。

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P16より

リサ・ランドールは物理学者で余剰次元の存在を研究している女性だ。もし余剰次元の存在が証明されれば、生命が4次元空間に存在しているという可能性も出てくる。

 

ここで、球がフラットランドに最大の直径を持った円として存在している時を「現在」と呼ぶことにする。であれば、球がフラットランドの上に接しているときは「過去」であり、下に接しているときは「未来」になる。

しかし考えてみてほしい。球がフラットランドにどんな大きさを持った円として存在していようと3次元世界では相変わらず球として存在している。2次元世界からみれば球はいろんな円として存在していてそれに応じて過去・現在・未来が判別される。しかし3次元の球は、2次元世界における過去の円・現在の円・未来の円がすべて統合されたかたちで存在している。2次元世界における過去、球がフラットランドの上に接しているとき、球はフラットランドに点として存在していたわけだが、その点も現在の球は含んでいる。また、未来、球がフラットランドの下に接するとき、これも球はフラットランドに点として存在するのだが、この状態も現在の球はすでに含んでいる。これが西田の説明にあるところの、過去は過ぎ去っていながら未だ過ぎ去っていない、未来は未だ来たらざるものだが既に現れているという状態である。つまり、2次元世界における時間は3次元では統合されたかたちで存在しているのだ。2次元世界から見た過去・現在・未来は、3次元世界では矛盾的自己同一した状態にある。そしてこれを別のかたちで表現すれば、時間は存在していないということと同じなのだ。西田は矛盾した自己同一状態を絶対無の場所と説いた。2次元で分かれた時間は3次元においては意味を成さない。統合された状態にあるからである。つまりそれは絶対無なのである。2次元からみれば3次元は絶対無の場所である。

これは次元を一つ上げた世界でも同じである。つまり、3次元と4次元でも同じことがいえる。われわれの存在している3次元における過去・現在・未来は4次元では統合されている状態にある。それは矛盾した自己同一であり、3次元からみれば4次元は絶対無の場所である。西田の説明が難解なのは、4次元を3次元のロゴスで説明しているがためである。

 

生命の実在が4次元ならば、物事の説明がクリアになる。少なくとも自分は3次元と4次元の関係性を使うことで、西田哲学をすんなり理解できる。これを読んだ他の人はどうか知らないが。シンプルにいってしまうと、次元が一つ上がった世界では、その下の世界から見れば矛盾した表現でないと説明することができないのである。それは裏を返せば、無なのである。西田はそれを矛盾した自己同一状態とか絶対無とか、包まれながら包むと表現しているのである。