道路の渋滞を見て思ったこと

今日バイパスを走って家に帰っていたら対向車線が渋滞していた。自分がのったインターのあたりでは渋滞は起こってなくて、しばらく走っていると対向車のスピードが徐々に遅くなってきて、そしてその向こうで渋滞が起こっていた。よく渋滞の先頭はどうなっているのかという問いが湧くが、今日の観察によれば渋滞の先頭は特定できなかった。以前テレビで、渋滞は登っていることに気付かないぐらいの緩い坂道で起こると言っていた。登っていることに気付かないから車は自然にスピードが落ちる。それが後ろの車に連鎖して後ろの車のスピードも落ちる。それがさらに後ろに連鎖していって渋滞が起こる。今日の渋滞の一部始終を観ていると、あれが渋滞の先頭だと特定できるような車はなかった。渋滞は、特定の車が起こすのではなく、複数の車の自然なスピードの減少の連鎖が起こすという説明がしっくりくる。渋滞という現象は、車というモノによってではなく、車と車の関係性によって引き起こされるのだ。

渋滞という現象は関係性によって引き起こされるものである。とすると、渋滞という現象の犯人は車どうしの関係性であって、車ではない。もちろん車が犯人なわけだが、だれか特定の車が渋滞をひきおこしたわけではない。のろのろ走っている車が渋滞の犯人だといいたいところだが、そののろのろ走っている車は前の車がのろのろ走っていたからのろのろ走っていたのである。で、その前はその前の車がのろのろ走っていたから…と続いていくわけで、じゃあその先頭はというと渋滞が生まれる前から観察していた自分には分からなかった。たぶん誰も渋滞の犯人ではない(裏を返せばみなが渋滞の犯人である)し、自分が渋滞を引き起こしたと自覚している人はいないと思う。

おそらくこの世界で起こっているほとんどすべての現象は、渋滞と同じ構造なのだと思う。つまり、現象というものは、モノによってではなく、モノとモノとの関係性によって引き起こされるのだ。このような考え方はナーガールジュナひいては仏教的な考え方と同じである。そしておそらく量子力学も。

今日は県立図書館で様々な本を漁っていたのだが中動態に関する本もいくらか読んだ。

この本をぱらぱらとめくっているとき、非常に興味深い箇所に巡り合った。

ラトゥールは、世界のあらゆる物事の基本的な在り方を「項と項の関係」として捉える際に、「項」よりも「関係」の方がより基本的なものだと考える。つまり、「項」もまた「関係」によって作られると考えるのである。ラトゥールはこの「関係」のことを「行為」と呼び、「項」のことを「行為者」と呼ぶ。この場合の「行為者」とは、人間や物や概念に至るまで、あらゆる存在者を指しており、「行為」とは、あらゆる存在者に係わるあらゆる作用のことである。このような思想においては、主体と客体は共に「行為」に関与する「行為者」として位置付けられ、能動・受動という役割上の区別は重視されない。 P129

この本を図書館で読んだ帰りに、バイパスで渋滞を観察することになったのだが、うーむ、上の引用の見事な具体例がバイパスで確認できた。わざわざ説明する必要もないと思うが、渋滞という現象における「項」とは「車」のことである。渋滞という現象もまた、項によってではなく、関係によって生まれる。車という行為者どうしの関係の作用による渋滞において、能動・受動という区別は存在しないのだ。

この考えは、まさに中動態によって表現される、<主体の行為が主体に反作用するために行為を支配し切れない>という状態を、世界の通常の在り方と見做すものである。ラトゥールはこの思想を大規模に展開する。ラトゥールによれば、世界は無数の行為者によって作られている。そして行為者たちは行為者間の関係によって作られている。あらゆる安定的な存在は、それが物であれ概念であれ、行為者間の関係の中でそれなりの安定性を獲得することで暫定的に成立しているに過ぎない。これは、絶対的な安定性、例えば「永遠の本質」のようなものを否定する思想であり、全てを関係によって作られたものと見做す思想である。しかし同時に、あらゆるものの被構築性を肯定的に捉える思想でもある。P130

中動態は関係性を重視するから、仏教や量子力学と相性がいい。さらにいえば、相対性理論も相性がいい。言語学的・哲学的な視点から考えて見ると、量子力学相対性理論は「関係」を梃にして合体させることができるのではないかと思う。

 

上の引用にある「永遠の本質」というと、神とかイデアを想像する。

最近、神の沈黙についてよく考える。なぜ民が苦しんでいるのに神は何もせず沈黙したままなのだろうかと。遠藤周作の『沈黙』は神の沈黙について描いた小説で、民も布教にやってきた教徒も幕府の弾圧にひどく苦しめられるのだが、神はずっと沈黙したままであった。自分はキリスト教徒でもなんでもないのだが、なぜか最近なぜ神は沈黙したままなんだろうかと考える。

これについて一つの自分なりの解釈がわいた。それはマンガ『タコピーの原罪』を読んだおかげである。

タコピーはいじめられているしずかちゃんをなんとかしようとするのだがなかなか救えず、自分の道具を使って何度も巻き戻してしずかちゃんを救おうとする。で、最終的にしずかちゃんをいじめるまりなちゃんを殺してしまう。しずかちゃんはそれでタコピーに感謝するのだが、まぁここからいろいろと物事が悪化していって、結局しっちゃかめっちゃかになる。

もし神が現実に降臨してあれこれしていたら、たぶんタコピーみたいにぐちゃぐちゃになっていると思う。だから神は沈黙することにしたのだ。『沈黙』で、弾圧される民や布教徒に神が沈黙することなく手をさしのべていたら、そのときだけ民や布教徒は救われるかもしれないが、べつのどこかでひずみが生まれただろう。そのひずみを解決しようとすればまたべつのどこかでひずみが生まれ収拾がつかなくなる。だから神は沈黙するしかないのだ。もし神が本当に実在するのなら、このひずみだらけの世界がベターなのだ。ベストではないにせよ、神が沈黙していなかったら、タコピーがやったようなより悲惨な世界になっている。そもそも神がこのように沈黙していようと、歴史のなかで幾度も神を信じる人間が兵を組織して戦争を引き起こしてきたのだ。沈黙していなければもっと悲惨な世界線をたどっていただろう。ネタバレになるが、結局タコピーは自分が存在しなかった世界線に巻き戻して世界を去る。しかし痕跡は残していたのでしずかちゃんとまりなちゃんはタコピーのことを思い出す。

神は、そもそも地球上の(いや今では宇宙の)資源を食い荒らす愚かな人間という存在を作りだした時点でタコピーなみの知能しかないことは明らかだ。バカなのである。神が本当に完璧に完全なる永遠の善ならば、そもそも人間という愚かで邪悪な存在を創造するはずがない。でもこいつは承認欲求があるから痕跡を残して消えていった。で、モーセやキリストやムハンマドが痕跡に気づいて布教し始めたわけである。『タコピーの原罪』が興味深い作品なのは、神とはタコピーのような存在だと教えてくれる物語だからだろう。こうして神はタコピーのように世界から消え去っていった。つまり神は関係になったわけである。「永遠の本質」というのは「項」なわけだが、神は「項」ではなく、むしろ「関係」である。

 

渋滞の話からだいぶ飛んだが、ここ最近はこういったことを考えている。