世界は「関係」でできている 量子力学・哲学・仏教を一挙に理解する

カルロ・ロヴェッリの『世界は「関係」でできている』を読み終わった。

 

難しかった。頭の整理も兼ねてまとめてみようと思う。

 

物理学者による量子力学の本なのだが、哲学から仏教までをさまざまに絡めた詩的な本

生物学者である福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』も詩的で文学的な本だったが、それと通じるものがある。こういう、学際的な本っていうのは読んでて非常に面白い。

 

この世界にはモノがたくさんあって、モノには手触りがあって、それらには色や臭いや形があって、それはそのモノを特徴たらしめ、私たちに情報を与えている。私たちはこのように世界を認識している。この世界認識は古典物理学に拠っている。

 

しかし量子力学はこの認識を否定する。

量子力学、というより量子力学をふまえた著者の解釈によれば、この世界は空っぽで、モノというものは存在せず、すべては関係によって成り立っている。仏教のナーガールジュナの空論と同じで、世界は空なのである。実体は存在しない。すべては関係という相互作用である。これはルビンの壺を見れば理解も進むと思う。

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wikipediaより引用

真ん中には壺があって古典物理学的にいえば、壺は壺自体で存在している。量子力学はこれを否定して、壺は実は向かい合う二人の人間の相互作用によって存在している。個人的にはフッサール現象学もこれですんなり理解できると思っていて、壺という古典物理学的世界認識(つまりは自然的態度)を判断中止すれば、二人の向かい合う人間(純粋な現象の現われ)という量子力学的世界認識を得ることができる。
量子力学的世界認識はちょうど、誰もいない空っぽの教室(=世界)に、生徒(=量子)が登校してきて、1年1組という組織(=人間)が現象する、みたいなイメージだろうか。生徒(=量子)はモノではないかという意見があるかもしれないし、それは自分でも完全に理解できていないが、量子は量子自体で存在しているのではなく、量子どうしの相互作用によって存在している。目の前にイスがあって、イスはイス自体で存在しているのではなく、私によって座られるものという認識のなかで存在している。ここらへんは現象学、とくにハイデガーを理解しているとすんなり分かると思う(ハイデガー量子力学なみに難しいが)。さらに、イスのさまざまな性質、たとえば背もたれがあるとか、ふかふかのクッションがついているとか、木でできているとか、こういう性質もイスそれ自体に宿っている性質ではなく、人間に認識されて(ハイデガー的には「気遣われて」)はじめてその性質をもつのである。量子どうしもこれと同じで、量子それ自体、ひいてはその集まりであるイスや車や人間もすべて、相互作用のなかで存在している。本には登場しないが、ソシュール言語学にあるシニフィエシニフィアン的なイメージを念頭に置いておくと分かりやすいと思う。ソシュール言語学によれば、たとえば「犬」という名づけを行うまで犬は存在しない。犬と呼ばれるあの生き物、ワンと鳴いて、4つ足で動いて、しっぽのあるあの生き物に「犬」という概念が与えられるまでは犬は存在しないのだ。いやいや、犬と呼ばれるそれは、モノとしてちゃんと存在するじゃないかという批判が常識的に考えればあるわけだが、犬と名づけられるまで犬は存在しないのである。だから「犬」というシニフィエを持たない赤ん坊の世界に犬は存在しない。著者によれば、世界は相互作用の網の目でできていて、存在しているものは網の結び目としてとらえられる。世界を関係でとらえると心の世界も実は量子力学の世界と同じものとして理解できる。心もそれ自体で存在しているのではなく、相互作用のなかで存在しているからだ。むしろ、心にかんしてはすぐに腑に落ちる。心はモノではないのだから。どこにあるかといえば、人によっては脳を指さしたり、胸を指さすが、それは分からない。楽しんだり、悲しんだりは心で感じるが、その楽しんだり悲しんだりはすべて何らかのモノとの相互作用によって生まれるわけで、心の世界そのものが関係であるのだ。

 

以上のように自分は読解した。

著者は量子力学と心の関係について述べていたのだが、量子力学を土台にして心について述べていた。同じものなら逆もできると思う。

 

われわれはたとえば、過去の出来事も未来の予想も瞬時に心で想像できる。個人的にはこれはパラレルワールド量子力学的には多世界解釈を裏付ける証明になると思っている。心には、3か月前にラーメンを食った自分や2年後に病気で入院している自分というような無限の自分が重なり合って存在している。だからこそ、現在の自分は瞬時にそのさまざまな自分を想像することができる。そして、心になぜそのような性質があるのかといえば、そのような無限の自己を収納できる空間があるからである。で、これを証明する手がかりを与えてくれるのが、ポアンカレ予想だと思う。ポアンカレ予想というのは、数学者ポアンカレが予想した問題で長い間数学者を悩ませてきた問題だ。最近ようやく、ペレルマンというキノコ狩りが趣味のロシアの数学者によって証明された。面白いのが、ポアンカレ予想は数学の問題なのに、ペレルマンは物理学を使ってそれを解いたのだ。そしてこの予想は宇宙のかたちと強く関係している。宇宙のかたちが関係しているなら、それは心のかたちと関係しているということである。ポアンカレ予想はつまり、人間そのものを問うているともいえる。人間は3次元の存在だが、それは世界の網の結節点という局所部分が3次元であって、その内実は4次元である。2次元の紙が3次元の空間に無限に積み重ねられるように、3次元の自分、ラーメンを食ってる自分や病院に入院してる自分は、4次元の空間に無限に積み重ねることができる。だからこそ、すぐにそういった自分を想像することができるのだ。

 

『世界は「関係」でできている』という本を読む前から、自分は宇宙と心は同じかたちをしていると考えていたし、そもそもユングなど他の人間もそういったことはすでに指摘していた。それが今回、量子力学者によって裏付けられた(もちろんカルロ・ロヴェッリのいっていることが100%正しいとは限らないが)。願わくは、数学者特にポアンカレ予想を理解する人間に、数学と宇宙や哲学、心との関係を描いた学際的な文章を執筆してほしい。学問の世界はあまりに細分化されていて、極度に専門的な人間が増えた。それはそれで意味のあることだが、今度はそれを統合して大きな絵を描く人間が必要だ。レオナルドダヴィンチのような学際的、ルネッサンス的人物が。そういった人間が日本から出てくれたらいいのだけど。

 

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