ソーシャルフィクション(SF)小説というジャンル

ソーシャルフィクション(SF)というジャンルの小説ってあるのかなぁとふと思い、それについて考えている。同じSFでも未知の科学技術によって支えられる世界を描いたサイエンスフィクションのことではない。どうやら社会派SF、ソーシャルサイエンスフィクションというのはあって、架空の社会を描いた小説というのはあるようだ(wikipedia情報)。

架空の社会の探究はサイエンス・フィクションの最も興味深い点の一つであり、予言的なもの(H・G・ウェルズストルガツキー兄弟の The Final Circle of Paradise英語版)、警告的なもの(『華氏451度』)、現代社会を批判したもの(アレクサンドル・グロモフ英語版)、現在の解決策を提示したもの(スキナーの『心理学的ユートピア』)、もう1つの社会を描いたもの(ストルガツキー兄弟の Noon Universe シリーズ)、倫理的原則の意味を探究したもの(セルゲイ・ルキヤネンコ)などがある。   wikipediaより

 

自分の考えていたソーシャルフィクションというのは、何か新しいシステムなり制度が導入されたことで既存の社会がどのように変化していくか、そこにいる人々のふるまい方や行動、人間関係にどのような変化が起こるか、あるいは起こっているのかを描いたもの、そういうところが重点的に描かれているものがソーシャルフィクションなのかなと思っている。

カズオイシグロの『わたしを離さないで』という小説や、村田沙耶香の『殺人出産』はソーシャルフィクションだと自分はみなしている。『わたしを離さないで』の世界では医療技術が発達していてクローンが臓器提供する。そのクローンたちの人間関係を描くことで、我々に生の本質を問う。『わたしを離さないで』はサイエンスフィクションだとみなされているが、たしかカズオイシグロ自体はそれを否定している。クローンが臓器提供するという設定自体はたしかにサイエンスフィクションなのだが、この作品の力点は将来臓器提供によって若くして死ぬことが決まっているクローンの恋愛などを含めた人間関係にある。

『殺人出産』は、10人子どもを産んだら1人殺してもいいという制度ができた日本の話。怨みを晴らすために10人の子どもを産む人もいれば、主人公の姉のようにただただ人を殺してみたいという純粋な欲求のもと子どもを産む人もいる。このような制度のもとで人は何を想いどう生きるのか。殺す人間がいれば、当然殺される人間がいるわけで、もしかしたら姉に殺されるのは自分かもしれないという懸念を抱きながら主人公は生きている。

カズオイシグロノーベル文学賞を贈られた際、協会が彼の作品群を「世界と繋がっているという我々の幻想に隠された深淵を偉大な感情力で明るみにした一連の小説」と評した。ソーシャルフィクションの本質はここにあると思う。つまり、架空のある制度なり世界のなかで、人間の生はどうなるのか、どうあるべきなのか問うことによって、われわれは既存のわれわれの世界と対照できる。それによって、われわれは自分たちの世界がどこに進むべきなのかを考えることできる。優れたソーシャルフィクションは進むべき道を考えさせてくれる羅針盤となるのだ。

 

どうしてソーシャルフィクションについて考えていたのかというと、もし自分に小説を書く力があれば、次のような骨子の物語を書いてみたいなと思ったからだ。

神経科学がより発達して意識が何なのかが分かった世界。人間は自分の脳神経に他者の意識を生まれさせることができる。それによって何が起きるかというと、いわゆる意識のどこでもドアによって人間は一瞬にして自分の意識を他者の肉体に移動させることができる。意識の量子テレポーテーションである。

このような世界では、人間のふるまいや関係はどのようになるのかを考えている。

たとえば、マッチングアプリやメルカリみたいなプラットホームを提供するビジネスが生まれるだろう。大阪にいる人が北海道に日帰り旅行したいなと思ったとき、このプラットホームを利用して、北海道に住んでいる人の肉体に意識を飛ばす。そうして他者の肉体を介して意識だけ北海道旅行する、みたいな。

あるいは、児童が妊婦の大変さを理解する授業で、児童の意識を妊婦に飛ばして身体的に理解させる、みたいな。障がいのある人の世界認識を知る授業で、障がい者に意識をとばす、逆に障がい者が健常者の身体を使って世界を旅行する、だとか。

おそらく、こうしたプラットホームはビジネス的にかなり成功するはずだ。それは企業だけでなく利用者も。メルカリは、メルカリという企業だけでなく、そのプラットホームを利用する人もお金を稼いでいる。これと同じように、意識のどこでもドアのプラットホームは、企業だけでなく個人も稼げる。芸能人やアスリートの身体で世界を経験してみたいという需要はかなりあるはずで、たとえば1日3万とか10万で芸能人やアスリートは自らの肉体を他者に貸してやる。こういう世界では何がおこるのだろう?今の世界でもあるが、肉体に明確な値段がつけられるということであり、肉体格差が生まれるだろう。肉体は生まれながらにして決まっているものだから、親ガチャ批判がより大きくなる。もちろん美容整形によって肉体はよりアップデートされる。たぶん、普通の人間はそれでも儲からないから、頭に電極を生やしたり、腕に磁石をつっこんだ身体に改造して肉体を貸し出してやる。そういった極端な肉体を体験させることでお金を稼ぐのだ。

自分以外の肉体を経験できる世界が訪れるとアイデンティティはどうなるのだろうか?私以外わたしじゃないの、当たり前だけどね、なんて言葉は消え失せるかもしれない。消えないにしても自己同一性という概念は相当揺らぐだろう。

 

今現在メタバースが世界的な市場になろうとしていて、おそらく今後数年でメタバースの世界が一般的になるだろう。世界的な企業や国家が後押ししているのだから。しかし、メタバースがどんなに普及しようと、結局意識のおおもとは肉体にある。メタバースは完全に肉体を無視している。テレビで一日の大半をメタバースで過ごしている人を見たが、頭にディスプレイをつけて一日のほとんどを椅子に座って過ごしていた。そんな人間の肉体はすぐに不健康状態になるだろう。だから必ず揺り戻しが起こる。

メタバースの次は必ず肉体回帰の時代になり、もしかしたらそのころには神経科学も進んで意識の量子テレポーテーションも可能になっているかもしれない。だから自分がここまで書いてきたことは近未来(10年後くらい?)的で、起こりうる可能性は十分にある。そういった世界で何が起こりうるかを物語にできれば、われわれはその世界をユートピアとして歓迎するのか、あるいはディストピアとして拒否できるのか判断できる。ソーシャルフィクションの役割の一つはここにある。

 

ま、こういうことを最近考えているわけです。