井筒俊彦と量子力学・虚数・宇宙

井筒俊彦の本を読んでいる。この人は哲学から仏教から現代思想イスラームインド哲学まで縦横無尽に駆け巡ってひとまとめにする力強さがあって読んでて面白い。それぞれを細かく見ていけば違いはあるのだろうけど、大局的な視点から見れば結局のところどの思想や文化でも言ってることは同じようなことになるようだ。

井筒の言ってることをおおざっぱにまとめてしまうとこうなる。わたしたちは言葉を使ってこの世界を認識している。他者とコミュニケーションをとれるのも言葉を使っているからだ。「そこのコップをとってほしい」と人に伝えるとコップをとってくれた。それはお互いがコップと呼ばれるものを認識しているからだ。言葉は世界を分節している。言葉がなければ世界はのっぺらぼうになる。そこに「コップ」という言葉で切り込みを入れることで、この世界にコップは存在しわたしたちはコップを認識できる。わたしたちはさまざまな言葉で世界にあるものを分節し世界を理解している。しかし逆に言えば、言葉があることによってわれわれは世界を正確に認識できていないともいえる。わたしたちは、虹が何色かと問われるとと7色だとこたえる。しかし別の文化圏では4色や5色だったりする。ロシアは4色で、ドイツは5色らしい。なぜ見え方に違いがあるのかというと、日本のほうがドイツよりも色の分け方が細かいからだ。目や脳の構造に違いがあるわけではない。日本人とドイツ人が並んで同じ虹を見ていても、日本人は7色と答え、ドイツ人は5色と答える。では、どちらが正確に虹を認識しているのか。それは分からない。われわれは世界を認識するために言葉を使うわけだが、同時に言葉のせいで世界を正確に認識できなくなっているわけである。それぞれの国の言葉は違い、それによって分節のしかたが違い、世界の認識のしかたが異なってくるわけである。世界を正しく認識しようと思ったら、言葉の分節を無化する必要がある。言葉によって分節される前の状態に移行すること。その状態に移行するためには修行が必要なわけだが、言葉によって分節されない無分節の世界こそが本来的な世界なのだ。その状態に行くことを悟りと呼んだり、その境地を無我の境地と呼ぶ。無分節の世界はすべてが混沌としていてコップとリンゴの区別はない。すべては融けあっている。無の世界、そしてその無はコップとなり、リンゴとなる可能性をもった状態である。言葉とは、コトの葉である。わたしたちが物心ついたときにはコトの葉をとおして世界を認識しているが、葉っぱというのはいきなり葉っぱとしてこの世界に生まれたのではない。葉っぱが成る前には枝があり、幹があり、その下には根があるのだ。こうしてもとをたどっていくと種にいきつく。この種、すなわちすべてのコトの葉を生み出す可能性を持った種をビージャ、種子(しゅうじ)といい、その場所をアラヤ識と呼ぶ。アラヤ識はわたしたちの心の深層にある。表層意識におけるわたしたちはコトの葉によって世界を分節し、そして他者とコミュニケーションをとり日常生活を送っている。しかしすでに述べたように、これは世界を正しく認識した状態ではない。本来の世界を認識するには修行が必要で、そのプロセスを正しく踏んだ者が、深層意識にまで降りていくことができ無分節の世界に到達できる。しかしわたしたちはその世界で生きているわけではなく、悟りを開こうが開かまいが日常の表層意識で他者とコミュニケーションをとりながら生きていかねばならない。それでも深層意識まで降りていき無分節の世界に到達できた者は、悟りを開く前に見えていた世界とは異なるものが見えるという。

 

井筒の本を読んでいると、彼の使う言葉は理科系の説明とも相性がいいように感じる。

観想体験に関係のない日常的生を生きている人が、「事物」として知覚しているものは、観想体験を経た人の目から見ると、一つ一つが存在的「出来事」、言い換えればプロセスなのです。個体として存続する無数の物から出来ている世界として、普通、認識されているフィジカルな世界は、この見地からすれば、ただ現象的幻影にすぎません。『意味の深みへ』P50

 

これはもう量子力学の説明と同じなんだよな。

 

matsudama.hatenablog.com

 

『世界は「関係」でできている』という本では、カルロ・ロヴェッリという物理学者が、ナーガールジュナの「空」を使って量子力学を説明していたのだが、そこで言っていることは上の引用と同じなのだ。

コップとかリンゴには手触りがあって、わたしたちはそれを「モノ」として認識している。このようなモノが無数にある世界がフィジカルな世界で、これはわたしたちの日常的な世界である。しかし観想体験を経た人、つまり深層意識に到達した人にはこれは幻である。モノはモノとして存在しているのではなく、関係のなかで「出来事」として存在するのである。コップやリンゴはモノではなく、出来事なのである。

物理学には古典物理学量子力学があって、日常的な生においては古典物理学的世界観が成り立つが、深層においては量子力学的世界観が成り立つのだろう。二重スリット実験やシュレディンガーの猫など、量子力学の領域ではわたしたちの常識からすればありえないような世界が拡がっている。しかし観想体験を経た人にとってはむしろこのような世界こそが普通なのだ。

常識的に考えればその世界は矛盾した妄想の世界だ。しかしその想像にすぎない世界は、観想体験を経た人にとっては、そちらの世界のほうがむしろ実在した世界なのである。

経験的事物を主にして、その立場からものを見る常識的人間にとっては、質量性を欠く「比喩」は物質的事物の「似姿」であり、影のように儚く頼りないものである。が、立場を変えて見れば、この影のような存在者が、実は経験的世界に実在する事物よりも、もっと遥かに存在性の濃いものとして現われてくる。スフラワルディー

ーそして、より一般的に、シャマニズム、グノーシス密教などの精神伝統を代表する人々―にとっては、我々のいわゆる現実世界の事物こそ、文字通り影のごとき存在者、影のまた影にすぎない。存在性の真の重みは「比喩」の方にこそあるのだ。もしそうでないとしたら、「比喩」だけで構成されている、例えば、密教のマンダラ空間の、あの圧倒的な実在感をどう説明できるだろう。『意識と本質』P203-204

 

そしてさらに興味深いのが、量子力学の礎を築いたシュレディンガー方程式虚数「i」が登場することだ。虚数というのは二乗すると「-1」になる矛盾した数字なのだが、古典物理学の方程式には登場しない「i」が量子力学になると初めて登場するのである。

常識ではおかしいはずの虚数量子力学の世界には存在する。しかしすでに見てきたように、深層意識ではわたしたちの常識が通用しない、そもそも常識そのもののほうが幻影なわけであるから、「i」が存在するほうがむしろ普通なのである。その「i」は90度回転を意味する。実数軸と虚数軸で構成される複素数平面を見れば分かるように、実数軸からの90度回転を虚数「i」は意味する。つまり、観想体験で観ることのできる世界は、われわれの日常的生が営まれる3次元世界から90度回転した方向にある世界である。その世界は4次元空間のことである。この4次元空間を観る方法が数学者根上生也の本に載っているから読んでみて欲しい。

 

 

a+biのかたちで表されるのが複素数。a+bi+cj+dk(i.j.kは虚数)のかたちで表される数を四元数という。これはハミルトンという数学者が発見したのだが、奇妙なことに四元数以外の数では矛盾して計算できなくなるらしいのだ。三元数では矛盾が起きて計算できないのが、四元数だと計算できるようになる。この四元数をみたときに思ったのが、複素数四元数は鏡の関係にあるなということ。わたしたちの日常的生を鏡映しにした世界もまた3次元にある。虚数i.j.kで構成された虚構の世界。そしてあちら側の世界から90度回転した世界がわたしたちの実数で構成される世界。こちら側の世界から見ればあちらの世界は虚構の世界であるが、あちらの世界からみればむしろこちらの世界が虚構である。量子力学や深層意識はそれを示している。そして、こちらの世界とあちら側の世界のあいだに4次元空間が拡がっている。これは、リサ・ランドールが提唱した余剰次元の世界と一致している。ブレーンと呼ばれる3次元空間があって、さまざまな粒子や力はそこに閉じ込められているが、重力だけは余剰次元を行き来している。この余剰次元、ブレーンの外側にある空間をバルクという。ランドールのいう宇宙の構造は、ブレーンとブレーンがあってそのあいだにバルクがあるというもの。自分は四元数をよく理解していないが、四元数余剰次元の関係は深いと思う。

 

井筒は量子力学や数学については言及していないが、ざっとみただけでも彼の学術領域と量子力学や数学は密接に関係している。結局のところ、表現が違うだけで同じ世界を観ているからだ。おそらくわたしたちの日常的世界とわたしたちが虚構と呼んでいるあちらの世界は、量子力学でいうところの対称性を持っている。こちらの世界が上向きのスピンをすれば、あちらの世界は下向きのスピンをする。そして、われわれ人間はちょうど二つの世界のあいだ、なのだ。あいだそのもの。

 

しかし疑問なのは、だとしたらなぜ人間の世界認識はこうも誤ったものになっているのかということだ。一握りの限られた特別な人間を除いて、ほとんどすべての人間は誤った世界認識をしていることになる。人間の認識構造はなぜ誤ったかたちになっているのか。それについて考えていこうと思う。