解離性同一性障害 どこでもドア 脱構築

今日解離性同一性障害の人の本を読んだ。とても興味深い。

 

著者のharuという人は解離性同一性障害、つまりは多重人格を患っている。

一人の人間に複数の人格が宿っていて、誰かの意識が前景化しているとき他の人格は後ろで観ているらしい。主人格のharuには専用の机があってharuが表にでるときはこの机に座り、他の人格が表に出ているときは水槽のような液体のなかにいるらしい。で、自分以外の人格が表にでているときharuの記憶はない。haruの意識は部屋のようになっていて、そこにharu含めて13人の人がいる。部屋には本棚があって本には記憶が記されているから、誰がどんなことをしたかはそれで知ることができる。主人格はharuだが、haruはほとんど表に出てこない。ようすけというしっかり者の人格がリーダー的存在で、他の人格との調停を行っている。haruは性同一性障害も患っていて、身体は女だけど心は男。haruという人間のなかには女性の人格もあるし、男性の人格もある。子どもの人格もあるし、大人の人格もある。数学が得意な人格もあれば、ものづくりが得意な人格もある。

haruは家庭環境が複雑で抑圧的な環境で育ってきた。その抑圧的環境と折り合いをつけるために人格が増えていった。こどものころ、女性の身体をもつharuは「女のこらしくしなさい」と言われてきたが、心は男だから耐えられない。そこで無意識から女性の人格である結衣が生まれた。このようなかたちで、無意識から一人一人、人格が誕生し今に至るという。

解離性同一性障害という障害が示唆するのは、一人の人間の身体は複数の人格を宿すだけのキャパシティがあるということだ。通常一人の人間には一つの人格が宿っている。複数あると障害になる。でもべつに複数あってもかまわないじゃないかと思う。なぜ障害になるかといえば、おそらくビリーミリガンのような事例があるからだろう。複数の人格を宿す人間が犯罪を犯したときどのような対処をとったらいいかという問題が生まれるからだ。

 

この本を読んでいるとき、ビビビっときた。どこでもドアは可能だと。しかしドラえもんのどこでもドアとは違う。ドラえもんのどこでもドアは身体がある地点からある地点に瞬間移動できる装置だ。これは現実では不可能だと思う。物理的存在である肉体を光より速く移動させることはできない。しかし意識だけなら瞬間的に遠く離れた地点に移動させられるはずだ。いわゆる量子テレポーテーションである。

haruの例から考えると、新たな人格は無意識から生れる。健常者は無意識から一本の人格が生えているわけで、日常のすべてがこの一本の人格で運営されている。そこに新たな人格の受け皿を接ぎ木してやるのだ。ここに佐藤と渡辺という二人の人間がいるとして、渡辺の無意識に佐藤の人格を接ぎ木し、佐藤の無意識に渡辺の人格を接ぎ木する。つまり渡辺と佐藤は二重人格者となる。両者の意識は量子力学的には人格が重なり合った状態にある。しかし現実では一つの人格しか表に出せないので、ともに渡辺か佐藤のどちらかに収縮された状態で現象する。ここで、佐藤を大阪に、渡辺を東京に置くとする。佐藤の人格が渡辺に決定されたとき、東京にいる渡辺の人格は瞬時に佐藤に決定される。これが量子もつれであり、意識のどこでもドアである。大阪にいる佐藤が、どこでもドアを使って東京に行きたいとき、渡辺の人格と交代すれば瞬時に東京に行くことができる。佐藤の身体は相変わらず大阪にあるが、意識は東京に行けるわけである。

これはあくまで佐藤と渡辺の二者で考えたが、これを拡張するとあらゆる場所に瞬時に移行できる。つまり、世界中の人間の無意識から空の人格を生やしておくことで、その空の人格に量子テレポートすれば意識を瞬時に移動させられるわけである。仮に猫や犬にも人間と同様の精神構造が宿っていれば、われわれは犬や猫として世界を体感することができる。あるいはキノコにだってなれる(キノコもキノコどうしでコミュニケーションをとっているらしい)。自分は人間で男だが、女を経験できるし、猫も経験できるし、キノコも経験できる。これはつまり、悟りである。私は犬であり、犬は私である。私はキノコであり、キノコは私である。絶対矛盾的自己同一。そしてここにおいて、言葉はすべて無化される。言葉の意味はなくなる。世界を分節する必要がないのだから。ある言葉に無限の意味を注ぎ込み、言葉という器を破壊する。ジャックデリダの言う究極の脱構築である。

 

人間の無意識に人格を生やすことで世界はどうなるのか?

このような世界設定で物語を構築してみたいと思った。